続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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B-02-59 山科疏水の散策(28)6年振りの「諸羽神社」初詣で

       琵琶湖疏水の散歩道・第503話(2013-01-09)   KANKAMBOW記

 

1)まえがき

 私は山科疏水の「四宮地区の水路べり」をよく散歩するが、諸羽山をくぐる諸羽トンネル水路に並行した地上部の散歩道に沿って児童公園が存在する。その坂斜面の下に諸羽神社の境内が続いており、神社の境内や建築物が木々の間から見えている。その疏水道から諸羽神社に降りる坂道が児童公園に沿って3ヶ所あり、時々降りて参拝することがあるが、疏水を経由せずに地上から「初詣で」をしたのは今回を含めてわずか2回目である。

 四宮・安朱・竹鼻北部の産土神であり、平安時代からの由緒のある「諸羽神社」の存在は私にとって一番大切な神社であるが、近過ぎてご無沙汰をしていたことになる。昨年末に山科区役所の「やましな魅力発信プラットフオーム」に加入させていただいた受信の中に「諸羽神社の初詣で」の記事を見付けたので出かけることになった次第である。

 最初の参拝は平成19(2007)125日であり、今から6年前となるが、ホームページの「山科疏水の散策(18)」に駒札や由来書の全文を含めた詳細な見学記を記述しているので、今回は重複を避けて、新しい話題を拾ってみた。社域1800余坪の比較的狭い境内であるが、機会を見付けて参拝の頻度を増やしたいと考えている。

 

2)諸羽神社の場所

 国道筋から車で諸羽神社にアクセスすることは簡単ではない。周辺は山科地区特有の屈折した道が多く、道幅が急変することも多い。私は大津方面から国道経由で来た友人に問われても答え難いので、JR山科駅に向かう118号線で旧東海道筋を右折して毘沙門参道を少し越えたところに諸羽神社の大鳥居があるので、短い参道を北上すると駐車場があると説明している。

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 左の写真は旧東海道筋に面した「一の鳥居」で、祝日には両側に大きい垂れ幕が掲げられている。少し先の進むと右の写真に示す「二の鳥居」があり、車で接近できるのはここまでである。奥に社殿が見える。

3)奉納された白蛇の額の紹介

「一の鳥居」の左手前に京都市が建てた駒札が建っているが、老化して判読し難い。6年前の写真と対比すると、明らかに材質の選定ミスである。読めない駒札は、交換するか撤去した方が望ましい。

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 今回の訪問の目玉は、神殿前に飾られた額である。京阪四宮駅横で飲食店「ふたば」を営む山中さんが奉納した額で見事な作品である。中央の白蛇(右の写真)は弁天様のお使いで、商売繁盛・金運など目出度い神様と言われている。

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 私は巳年生まれの年男(としおとこ)である。白蛇の首の部分が風に揺られて動くようになっている。昨年は体調や長距離歩行の困難な年であったので、今年の幸運をお願いした次第である。

B-02-58 山科地区にある植物の話題 ① 駅前の街路樹「ユリノキ」

          琵琶湖疏水の散歩道・第502話(2013-01-07)   KANKANBOW記

1)まえがき

 私は最近「やましなを語りつぐ会」のお世話になっているが、定期的に開催される例会で、ご挨拶がわりに一枚の解説資料を配布して説明させてもらっている。私は季節の変化に対応する植物の由来にも興味があるので、関連する話題を数回紹介しているが、世話役の説田さんから、このほどシリーズ物として機関誌「笹の音」に投稿してほしいという要望があった。例会に出席を重ねる中で会員の経験と実力に触れ、植物分野の知識が深い方も居られることも知ったが、機関誌の原稿集めをしている世話役のご苦労も知っているので、このシリーズは“今後誰でも投稿できる場として育てることを前提”として引き受けることにした。要点を整理して短くまとめたのが本資料である。                          原稿は2011-11-23に作成したもの)

2)山科駅前のユリノキについて

 昨年11月の例会で説明した資料「山科駅前の街路樹ユリノキの由来」を参考までに末尾に添付したが、今年も黄葉となり落葉が始まる季節を迎えた。

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 写真は三条通りの交差点から、北の山科駅までの両側に存在する約30本のユリノキを示すが、この街路樹の説明は、写真の向かって右側の手前部分にある小さな木札だけであり、学名「モクレン科ユリノキ属」の記載があるのみである。私はモクレンとかユリの名のついた樹木に興味を持って、少し調べたみた結果が面白かったので、例会で紹介(配布資料を末尾に添付)したところ、話題になったことを思い出している。できれば街路沿いに簡単な説明版を設置したいと願望している。

 

3)京都市の近代街路樹100周年の話題

最近になって「京都市の近代街路樹100周年」としてユリノキが話題として取り上げられ、2011-1021付京都新聞でも報じられたので、その要旨を紹介する。

 ここでは、京都市都市緑化協会から発行されている「京のみどり・秋」誌64号に詳しく紹介されているので、これをベースに紹介する。

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「京のみどり」誌は、私の愛読誌の一つであり、今年の秋号(季刊)で
64号となる。この冊子はA-41520ページであるが、その表紙の写真がすばらしく、京都の「みどり」の話題が集約してあるので、毎季の発行を楽しみにしている。上の写真の右は最近発行の表紙例であり右は64号に記載された記事のページの題目を示したが、“明治451912)年に烏丸通に近代的な街路樹として「ユリノキ」が植栽されてから100年を迎えるので、記念事業として12月頃「記念シンポジウム」を開催し、来年2月頃には記念冊子・ガイドブックを発行する”と予告している。

         100周年記念行事は、実現しないまま現在に至っている)

 

4)添付資料

語り継ぐ会の定例会配布資料               2011-10-12作成

 

                  山科駅前の街路樹「ユリのキ」の由来


  京都山科駅前から三条通に至る南北の道路の両側と周辺に「ユリノキ」が植樹されている。京都市の街路樹は、イチョウ・トウカエデ・スズカケの木・サクラ・ケヤキなど約49000本が植えられているが、「京都市情報館」の記録によると、「ユリノキ」は京都市が採用した最初の近代的街路樹であり、明治451912)年に福羽子爵が大森京都府知事に贈った「ユリノキ」を烏丸通(京都駅~丸太町通)に植えたのが最初と記されている。

  福羽逸人子爵(1856~1921)については、神戸の須磨離宮公園の設計者として私のホームページに詳しく紹介しているが、新宿御苑(当時新宿農学所)を育てた人物としても知られている。私が東京単身赴任中によく訪ねた新宿御苑で、一番高い木(高さ35m、幹径3.9m)は「ユリノキ」であり、その秋の黄葉は見事であった。
 説明板によると、明治9(1876)年ころ明治政府が学監として招いたアメリカ人学者モレ―が東京大学の伊藤圭介教授にユリノキの種子を贈り、その一部を新宿農学所で育てたのが日本に伝授された最初である。農学所の指導者であった福羽逸人氏が明治40(1907)年に採取された種子から大量の街路樹用苗をつくり全国に配ったという記録も。ある これで話は繋がったが、山科駅前に採用された詳細な経緯は未調査である。  


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          2010-11-18-3063  山科駅前のユリノキ街路樹     2010-12-13-3343 半纏の木

 「ユリノキ」の名の由来は、ユリの形をした小さい花が5~6月に咲くことから名付けられたが、英名はチュ-リップツリー、米名はイエロウポプラと呼び、日本では葉の形が昔の着物の上に着る半纏(はんてん)に似ていることから半纏木と呼ばれることもある。 検索すると花の細部が紹介されている。

街路樹としては大きいサイズの落ち葉の処理が大変で、採用されている場所も少ないが、大きい葉の後始末をしながら季節の変化を楽しむ事ができて面白いと言う人もいる。
 近代的な外国由来の街路樹「ユリノキ」は京都最初の近代的街路樹であり、その延長に山科駅の正面通(外環状線)に「ユリノキ」が存在することは自慢できそうな話である。5~6月になったら、5cmくらいのオレンジ色のチューリップ状の花が咲く筈であるが、下からみてもわかりにくい。 あと10年先か20年先の立派な姿を想像しながら駅前通を歩いているこの頃である。                     

B-02-57 山科疏水の散策(27)錦秋の四宮舟溜り周辺を歩く

     琵琶湖疏水の散歩道・第496話(2012-12-08)  KANKANBOW記

 

1)まえがき

 最近は体調不良のため遠距離散歩を避けているが、121日の朝、自宅から歩いて約25分に位置する四宮舟溜りの周辺を散策してきた。当日は京都市上下水道局主催の「京都市水道創設100周年記念・疏水ウオーキングラリー」の実施日にあたり、参加は難しいがウオーキングを楽しむ人達の写真を撮ることも出かけた理由の一つである。雑件をまとめて記録として残したのが本報告である。

 

2)疏水ウオーキングラリーに参加した人々

 出発点における各種セレモニーのためか、先頭を歩くラリーの人が四宮に姿を見せたのは10時半を大きく過ぎていた。舟溜りの前にスタンプを捺印する机がセットされ、救護室も併設されており、応援を含め男女の係員8名を越す充実振りに上下水道局の熱意が感じられた。

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     最初に準備を始めた女性3人組      スタンプを捺印するラリー参加者

  

クイズポイント④

第一琵琶湖疏水は舟運に利用され、蹴上のインクラインを経由して大津から伏見までの物資輸送に活躍しました。この舟運はいつまで続いたでしょうか?
     昭和269月  ② 昭和40年9月  ③ 平成元年9

 

3)四宮舟溜り周辺は動物の楽園

 この話題は前にも取り上げたが、今日も青鷺と猫が仲良く同席している珍しい写真や

オシドリ夫婦が陸上と水上を互いに見張り合って散策者からの餌を求めている姿を確認できた。昔は釣り人が捨てた魚を期待する猫の楽園であり、猫を捨てにくる人のあったが、釣り禁止となった今も餌を与える人もいて、太った猫の姿は健在であった。

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 蒼鷺と2匹の猫       人の動きを見張るオス      その下をゆっくり泳ぐメス

 

4)紅葉の美しい舟溜り周辺の風景

 山裾の紅葉は秋の盛りであるが落葉した桜は冬の姿であり、この対照が印象的な風景であった。   

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     諸羽トンネル右横なる紅葉の大樹      すっかり落葉した桜並木

 

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       全部落葉して黄色に染まった銀杏の大樹    諸羽幼稚園前のツワブキの花壇

 

 針葉樹の少ない四宮舟溜り周辺は、冬になると緑色が消え、紅葉と黄葉が目立つ風景となってしまうが、その美しさはすばらしい。


B-08-16 「閑栖寺」に田辺朔郎氏が寄宿していたという話題
     琵琶湖疏水の散歩道・第486話(2012-05-10)    KANKANBOW
 
1)まえがき
 掲題に関する問題で、閑栖寺住職の佐藤賢昭氏と面談させていただくことになり、関連施設も見学させていただいた。そのときに入手した「東海道・大津・追分―車石・車道と大津絵源流」と題した資料の中に、“閑栖寺余話”として下記小記事がある。

寺域を流れている水路はレンガ敷きである。
琵琶湖疏水の設計・工事指導に当たられた田邊朔郎博士が閑栖寺に寄宿されていたので、レンガ敷きにするよう提唱された。
このことは、京都洋画家故高木四郎氏より口伝されたものである。

 今回はレンガにある刻印について調べてほしいという希望であったが、周辺の諸問題を含めて調査した結果をとりまとめたものである。田邊朔郎の人物伝は多くの冊子が取り上げているが、この話題は私の記憶する限り初めての記述であり、聴取したものにネット情報(2日間の調査)を含めて佐藤住職への中間報告の目的でとりまとめたものである。必要あれば順次修正していきたい。
 
2)京都洋画家・高木四郎氏に関する調査結果
 ネット情報として登場する頻度が少ない洋画家であるが、「食べもの随筆・京のあじ(六月社より昭31(19569)年発行)」という本のカバーに挿絵を描いた高木四郎の略歴を示す下記紹介記事を見つけた。

明治42(1909)年生る。京都府立第三中学校卒業で、津田青楓氏に師事氏、二科展出品後、須田国太郎氏に師事、独立展に出品、戦後公募展に出品せず、現在京都に居住する。(昭和31年発行書籍)

 ネット上、とくに多い記事は、平成14(2002)年に国の登録有形文化財の指定を受けた「フランソア喫茶室(阪急河原町より南木屋町出口徒歩1分)」を昭和16(1941)年にイタリアンバロック風に改装時の協力メンバーの一人であり、現在でも高木四郎氏のデザインしたステンドグラスが残っているという話題である。
 高木四郎氏は、当時発行された多くの書籍の表紙デザイン、挿絵の作家として知られており、東京の洋画家(挿絵・随筆家)木村荘八氏と対比できる京都の洋画家との評価もある。佐藤住職によると、高木四郎氏は閑栖時の佐藤家とは遠戚関係にあり、たびたび閑栖寺を訪れているので、確実な情報源と推定される。しかし、高木四郎氏と田邊朔郎氏の生年を比較すると田邊氏は人生約50年先輩となるので、この話題を高木氏が誰から聴取したかがわかれば確実性が増す。
                 
3)田邊朔郎が寄宿した時期の想定
 田邊朔郎氏が京都市に採用されてから琵琶湖疏水工事の完成するまでの時期と推定されるので、関連しそうな項目を年表や冊子から拾ってみたのが次表である。

1 明治16(1883)年05月 東京大学工学部卒業後京都府に奉職、疏水工事担当となる
2 明治18(1885)年06月 疏水工事起工式、疏水事務所を藤尾村に移設
3             08月 第1竪坑工事着工、19(1886)年04月 第1竪坑工事完工
4                 11月 第2竪坑工事着工,工期約1ヶ月で完工
5      20(1887)年04月   田邊朔郎、工師として疏水工事を総括
6              07月   第1竪坑口と藤尾口の連結完工
7     22(1889)年08月 藤尾近辺の工事終了のため、山科工場廃止
8     23(1890)年03月 疏水工事完工式、同年に北垣知事の長女と結婚
9     25(1892)年頃   北白川の真如堂近くに自宅を購入

 閑栖寺は藤尾地区に近接しており、藤尾から着工しているので、田邊朔郎が閑栖寺に寄宿した時期は、広義に解釈して疏水工事の着工(明治18年)から完工(明治23年)、さらに絞るとしたら、明治18年後半から20年後半の約2年間と推定される。
 
4)閑栖寺敷地内のレンガ張り用水路とレンガ塀について
 今回見学した灌漑用水路は、疏水工事前から存在しており、四宮川から分流された用水路で、その一部が閑栖寺の庭園内を横切っており、座敷からみると風情を保っている。
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      閑栖寺庭園内に入る用水路             閑栖寺に入る前の用水路
 左の水路の側面と底面は赤レンガで被覆されており、側面の上2段のレンガは後年になって積み増したレンガである。このレンガが田邊朔郎の提唱で改装されたものであるが、右の写真の石垣の上にも同質のレンガと推定される低いレンガ塀が存在する。この塀のある敷地を手に入れた閑栖寺が、その活用のため塀を撤去することになり、レンガの一部を外したら、刻印のあるレンガであることが判明し、レンガの由来について撤去前に調査することになったものである。
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  用水路の側壁の上に位置するレンガ塀の端部                   上にある敷地から見たレンガ塀
 レンガの制作時期を推定する場合、レンガのサイズ、色調、目地、積み方、刻印などの観察が重要といわれているが、今回レンガ塀に使用されたレンガに「マルハ」の刻印のあることが示された。
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       塀のレンガの刻印―1                        塀のレンガの刻印―2
 レンガの刻印はレンガ工場のトレ-ドマークで、刻印専門の調査マニアが集めてネットで公開しており、舞鶴の赤れんが博物館から冊子も発行されているが、明治初期のレンガの刻印には意味不明のカタカナ文字や線文字(たとえば、イ、ロ、ハ、二重丸、2本線、3本線など)の刻印が多く、レンガ職人を示す暗号のようなものといわれている。
 レンガとレンガの間の目地の不均質さも明治初期の感じがあり、サイズも均一でない。積み方も、1868年に伝来したイギリス積みを採用しており、イギリス人の指導で訓練された日本人の手でレンガの国産が始まっているので、入手面での問題は無かったと推定される。専門分野でないのでこの程度の考察に止めた。
 
5)琵琶湖疏水の第1竪坑近辺で拾った刻印レンガ
 閑栖寺のレンガ調査をしたとき、疏水の刻印レンガを保有している近隣の家に案内していただいた。採取場所は第1竪坑近辺と伺った。
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 車石の架台となっている2枚の疏水レンガ   疏水レンガの刻印部の拡大写真
 
 琵琶湖疏水は大量のレンガを使用するので、山科御陵地区にレンガ専用工場を建設して明治19(1886)年から稼働させているが、このレンガの刻印は明らかに別のものである。
「琵琶湖疏水の100年」誌によると、明治21(1888)年頃、石積みの予定だったトンネルの内部工事を急遽レンガ積みに変更したためレンガが不足し、日本土木会社・刑務所・江州・湖東など外部各地からレンガを購入したと記載されている。私の想像であるが、この頃第1竪坑の内面レンガ巻き工事が実施されており、購入したレンガの残りとして第1竪坑近辺に放置されていたと推定できる。刻印から見ると当時の大手レンガ工場から購入したもののようである。メーカーの特定は今後の課題としたい。

B-04-34 京都岡崎を流れる「白川」に関する追加調査

             琵琶湖疏水の散歩道・第485話(2012-05-03)  KANKANBOW

 

1)まえがき

 日本各地に「白川」という名のついた河川が存在し、その白川の源流をたどると、その多くに花崗岩で構成された山が存在する。そして花崗岩が風化して分解し、風化し難い成分である白色の硅砂が川底に沈降して白く見えることから「白川」という名が付いている。

 京都岡崎を流れる「白川」も、花崗岩系である比叡山~大文字山系を水源とする川であり、関連する調査報告書が多いが、その中で“花崗岩の風化過程”と“鴨東運河と白川の交差方式の考察”の面で私にとって参考になった資料のいくつかを摘出し、若干の考察を加えたのが本レポートである。私のような地質分野について知識の全く乏しいものが、その分野の権威といわれる人の論文を論議することは恐れ多いが、私の責任のもとにその論文の一部を引用させていただいた。

 

2)京都岡崎を流れる「白川」源流の山々の地質紹介

 尾池和夫氏といえば日本トップクラスの地震学者であるが、ホームページの形で俳句誌「氷室」に連載している「京都の地球科学」があり、毎月掲載で現在217号(約18年連続)になる。ネットで全号を閲読できるが、非常にわかりやすいので、平成64月(第7号)の「比叡山と大文字山」から一部を引用させていただいた。

    比叡山と大文字山を構成する地質の大略を示すと、比叡山延暦寺の根本中堂のある四明岳の頂上より北の山体は砂岩や頁岩である、その南から大文字山の山頂あたりまで黒雲母花崗岩で、その南はチャートを含む層で構成されている

    比叡山と大文字山は、もろい花崗岩とホルンフェルスという硬い岩でできている。花崗岩はマグマがでてきた冷えたものでありその熱いマグマが貫入したとき、接触したまわりの岩石を焼いて硬い岩に変質させた。それがホルンフェルスである。

    比叡山と大文字山のあいだの花崗岩は、白亜紀(約9800年前)に古生代末から中生代初期の堆積岩の中に貫入して噴出してきた。ホルンフェルスは硬く花崗岩は風化されやすいので、二つの山頂の間が浸食されて大きくへこんでいる。へこんだ部分の花崗岩が風化してできた白砂が白川を経由して京都盆地に流れ込んでいる。

 

 花崗岩についてWikipediaを開くと、その主要構成物は「石英、カリ長石、斜長石、黒雲母、白雲母、普通角閃石」などと記載されているが、化学成分をみると、すべてアルミノシリケートで、これに少量のアルカリ金属、アルカリ土類金属、水酸基が結合して結晶構造の変化に応じて種々の鉱物名がついている。花崗岩は結晶粒子が大きく、かつ鉱物結晶の熱膨張率が異なるにで、温度差により風化(地表面を作っている岩石が、大気・水・氷・生物などによって少しずつ破壊され変質を受ける現象)する。

 風化に強い石英主体の白砂が河川を経由して海まで運ばれ白い砂浜となり、瀬戸内海の白砂青松や鳥取砂丘となる。比較的風化を受けやすい斜長石は分解してカオリナイトとなり、陶土となり、瀬戸や信楽のように焼き物の町となっている。

 

 今年の3月に細見美術館で開催された「京都岡崎の文化的景観」展でいただいた資料に、東山の地質的観点からの考察記事が含まれている。京都市の文化財保護課から発行された小冊子なので、最新のものとして引用させていただくと、

"比叡山から東山にかけての東山は花崗岩帯で、石英や長石といった白っぽい鉱石を多く含む。この花崗岩は非常にもろく、さらに石英以外の鉱物は風化が進み、ガラス質の石英が残る。この石英を多く含む土砂が白川などに流れ、洗われた砂を白川砂と呼び、枯山水庭園で多用された。

 一方、石英が多い東山の表層土壌は有機質や微生物に乏しく、結果的に貧栄養の土壌でも生育できるアカマツやコナラといった樹種が優占してきた・・・。"

 

 京都の枯山水庭園では、川・湖のような水の場所に白川砂を敷き詰めて、これに渦模様を描いて流れを表現する。また、白川砂は光の反射率が高いので、電気のない時代には暗い茶室に明りを導入する役割を果たしたといわれている。龍安寺、銀閣寺、南禅寺、修学院離宮,詩仙堂、東福寺、下鴨神社、上加茂神社、白沙村荘など白川砂を利用した庭園美がすばらしい。

 

3)白川と琵琶湖疏水の交差方式の考察
 京都大学大学院工学研究科の田中直人助手と川崎雅史助教授(何れも2001-07時点)の名で土木学会論文集No.681に掲載された論文「祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疏水の役割に関する史学研究」に、“岡崎の南禅寺舟溜りで疏水の流れと白川が一旦合流し、500m西方の慶流橋付近で堰を設けて分流している現在の方式について明快に評価解説しているので、その要旨を紹介する。

① 近世以前の白川本川は、昔の絵図にあるように三条通りの北方を東西に流れ、鴨川に流入していた。白川派流である小川は平安神宮大鳥居の辺りから南西に向かい知恩院門前町より鴨川に流れていた。 

② 天正18(1590)年に秀吉が三条大橋を架け替えて橋辺地形が高くなり、洪水時に小川に本川の水が流れ込んで小川が本流の流路となり、旧本流は小排水路となっている。その後三条通以南の白川の流路が何度も屈曲している。

    17世紀の後半に始まる祇園新地の開発に合わせて、白川の水は地域の隅々まで配水され、水路も屈曲したが、頻発する洪水の危険を抱えたまま明治の琵琶湖疏水建設設計時期を迎えた。

    両水流の交差方式を検討した結果、現在の混流~分流方式を選択したが、家屋が密集する祇園地区の治水面から見ると、混流により水路の閉塞につながる白川の白砂が混流地点で沈降分別され、鴨東運河を経由して余剰水を鴨川に放流させて白川の水量コントロールが容易となったことが大きいメリットとなり、白川の治水が補完された。

    第二疏水による水量増加対策として、夷川舟溜りの北側から鴨川まで「白川放水路」を建設して洪水対策を実施したことも有効で、疏水建設以降、岡崎~祇園地区での水害が無くなり、都市形成の基盤となる治水が実現した。

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