続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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A-04-46 「山科の100万年(氷河期~現在)記事」の細部紹介

      琵琶湖疏水の散歩道・第492報(2012-09-05)   KANKANBOW

 

1)まえがき

 山科の市民団体「やましなを語りつぐ会」の土山年雄代表のまとめた巨大図表が、山科図書館の創立60周年の記念行事の一つとして、図書館2F81日から9月末の2ヶ月間展示されている。私も同会に所属しており、この巨大図表の背景に膨大な資料があり、とくに琵琶湖疏水が山科地区の明治以降の近代化に大きく貢献したかを絵図で見事にとりまとめた土山代表の努力に感銘を受けた一人である。

 琵琶湖疏水の地域産業に貢献した記述は、疏水のバイブルと評価されている「琵琶湖疏水の100年」誌をみると北白川地区と伏見地区の解説が中心であり、山科地区に関する記述に乏しいが、最近の十年間をみると、山科地区の歴史研究愛好者による区内発表資料のレベルも向上している。しかし、山科地区の資料がネット検索に登場する機会が少ない。

 私も山科在住年数がやっと十数年の若輩であるが、私のホームページとブログ「琵琶湖疏水の散歩道」のアクセス累計数も併せて10万件を大きく越える状況に達しており、滋賀・京都と巾広い閲覧者が存在するので、今回のイベントの詳しい内容を紹介することにした。琵琶湖疏水に興味ある人で、山科図書館で見学出来ない人のため、土山さんの了解を得てまとめさせていただいた。

 

2)京都新聞と山科新聞に紹介された記事

    京都新聞平成24(2012)82日に掲載された紹介記事

                 

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山科新聞平成242012)819144号に掲載された紹介記事

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3)琵琶湖疏水が山科の近代化に大きく貢献したことの説明

 今回展示の巨大展示物の最大の目玉は、中央にあるカラフルな2枚の山科地形図である。

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 琵琶湖疏水完成前の明治22(1889)年  琵琶湖疏水完成後の明治42(1909)

上記2枚の地形図の間に次に示す説明文がある。

                 

左の地図(明治22年)と右の地図(明治42年)を見くらべてください。茶畑(紅色)であった場所(明治22年)が、明治42年には田畑(薄緑)に変わっています。何故でしょうか? それは下記①,②の水路を経由して、それぞれの田畑に水が行き渡るようになったからです。

    疏水から水を引いて造った洛東用水路・東山用水路とさらに、その用水路から分岐した農業用水路。

    四ノ宮川等の河川に疏水の水を引き、川に堰を造ってできた用水路と、さらに、その用水路から分岐した農業用水路。

 現在も、これらの農業用水路は、地域により多少の変動はありますが、それぞれの土地改良区によって管理されています。

 

 山科盆地は、北東が高く、南西が低い扇状地になっています。その高低差は90mにも達しています。しかも盆地南部の勧修・小野・醍醐地区は幅がせまく、その中を山科川が流れています。このため、昭和30年代より山科川の治水工事が六地蔵から北へと始まり、昭和60年ころまで行われました。

 

こういった努力が実を結んで、現在では山科川沿岸が住宅街になっています。昔日の感がします。

 

 さらに、中央部の2枚の絵図の右側に、当時の北垣国道知事が琵琶湖疏水工事を推進した経緯が下記のように横書きに記載されています。

 

疏水はなぜ造られたのでしょうか?

 江戸時代より大津から京都への物資の輸送を円滑にしたいと多くの計画がありました。しかし、実現はしませんでした。大津から逢坂山を越え、京都へは日ノ岡峠を越えるという難所があったからです。

明治14年、着任した京都府知事・北垣国道は、舟運や灌漑用水のほか産業動力として使おうと打ち出した計画を実行に移しました。その結果、明治18年から5年間で、疏水工事を完成させました。

 工事にかかった費用は、京都府予算の2倍を超えました。その費用の捻出には、大変な苦労がありました。

    京都市民(上京区・下京区)には、戸数割・地価割・営業別の賦課金となって市民の負担となりました。通常税のほかにです。

しかも戸数割は、低所得の借家人にもかけられ、延納・減額願いが相次ぎ反対運動も起りました

    北垣知事は、率先して府職員と共に、幾らかの金額を拠出寄付し、工事の必要性を説いて京都市民の協力を求めました。

 疏水工事が進むなか、責任者の田邉朔郎は、アメリカの水力発電所を視察し、新たに、疏水事業の目的のなかに、水力発電事業を加えました。

 明治41年から4年間で閑栖した第二疏水によって、さらに大きな成果が京都市民にもたらされました。東京遷都によって、さびれた京都が活力を取り戻したことはとても大きい。

    京都の町n電灯が灯されたほか、日本最初の電気鉄道が開業、交通網の発展に、また鴨川周辺の工場にも電力が供給され、産業の近代化を推進しました。

    上水道の普及によって、飲料水が確保できるようになりました。

疏水の開通によって、山科はどう変わってきたでしょうか?

    灌漑用水が確保され、農業問題の解決に役立ちました。

    物資の輸送ルートであった東海道が、疏水の舟運に変わりました。それによって、馬車が次第に少なくなったため、馬が休憩する「馬場」の消えて行きました。安朱東馬場、安朱西馬場、護国寺馬場、安祥寺馬場のうち、護国寺馬場は、護国寺の境内に道が通り、

大正年間に入ると山科京極商店街へと大きく発展しました。

    四ノ宮川の水量が増えたことを利用して、明治33年には竹鼻で、水車を使った織物工場が誕生しました。

 さらに明治24年、蹴上に発電所が建設されたことによって、飛躍的な発展が京都市だけでなく、山科にも及びました。

    京津電車(今の京阪京津線)が開通し、交通の便がよくなりました。

    発電所ができたため、一般家庭にも電灯が灯るようになりました。

    上水道が普及し、飲料水が飲めるようになりました。

    水車を利用していた工場も電気が使えるようになりました。また、工場が次第に増えて経済の発展につながりました。

 

4)「山科100万年(氷河期~現代)の営み」年表

 山科100万年を、氷河期(約90~60年前にかけて)、後期旧石器時代(約2万年前~)、縄文時代(約1万2千年前~)、弥生時代(約2,300年前~)、古墳時代(約1700年前~)、飛鳥時代(約1420年前~)、奈良時代(約1300年前~)、平安時代(約1220年前~)、鎌倉時代(約830年前~)、南北朝・室町・戦国時代(約680年前~)、安土桃山時代(約440年前~)、江戸時代(約410年前~)、明治年間(144年前~)、大正年間(100年前から)、昭和年間(86年前~)、平成年間(23年前~)に分別して8枚にまとめられた年表(展示記事で、土山氏が20120801に作成されたもの)を山科図書館で入手したので、これを末尾に添付した。

 山科の歴史に興味のある人で実物を見学する機会の無かった人にとって、きわめて便利な年表である、この報告は、ネット検索で読めるよう、マイナーな写真を除いてほぼすべての記述を引用させていただいた。10月以降に公開する予定である

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