続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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B-08-16 「閑栖寺」に田辺朔郎氏が寄宿していたという話題
     琵琶湖疏水の散歩道・第486話(2012-05-10)    KANKANBOW
 
1)まえがき
 掲題に関する問題で、閑栖寺住職の佐藤賢昭氏と面談させていただくことになり、関連施設も見学させていただいた。そのときに入手した「東海道・大津・追分―車石・車道と大津絵源流」と題した資料の中に、“閑栖寺余話”として下記小記事がある。

寺域を流れている水路はレンガ敷きである。
琵琶湖疏水の設計・工事指導に当たられた田邊朔郎博士が閑栖寺に寄宿されていたので、レンガ敷きにするよう提唱された。
このことは、京都洋画家故高木四郎氏より口伝されたものである。

 今回はレンガにある刻印について調べてほしいという希望であったが、周辺の諸問題を含めて調査した結果をとりまとめたものである。田邊朔郎の人物伝は多くの冊子が取り上げているが、この話題は私の記憶する限り初めての記述であり、聴取したものにネット情報(2日間の調査)を含めて佐藤住職への中間報告の目的でとりまとめたものである。必要あれば順次修正していきたい。
 
2)京都洋画家・高木四郎氏に関する調査結果
 ネット情報として登場する頻度が少ない洋画家であるが、「食べもの随筆・京のあじ(六月社より昭31(19569)年発行)」という本のカバーに挿絵を描いた高木四郎の略歴を示す下記紹介記事を見つけた。

明治42(1909)年生る。京都府立第三中学校卒業で、津田青楓氏に師事氏、二科展出品後、須田国太郎氏に師事、独立展に出品、戦後公募展に出品せず、現在京都に居住する。(昭和31年発行書籍)

 ネット上、とくに多い記事は、平成14(2002)年に国の登録有形文化財の指定を受けた「フランソア喫茶室(阪急河原町より南木屋町出口徒歩1分)」を昭和16(1941)年にイタリアンバロック風に改装時の協力メンバーの一人であり、現在でも高木四郎氏のデザインしたステンドグラスが残っているという話題である。
 高木四郎氏は、当時発行された多くの書籍の表紙デザイン、挿絵の作家として知られており、東京の洋画家(挿絵・随筆家)木村荘八氏と対比できる京都の洋画家との評価もある。佐藤住職によると、高木四郎氏は閑栖時の佐藤家とは遠戚関係にあり、たびたび閑栖寺を訪れているので、確実な情報源と推定される。しかし、高木四郎氏と田邊朔郎氏の生年を比較すると田邊氏は人生約50年先輩となるので、この話題を高木氏が誰から聴取したかがわかれば確実性が増す。
                 
3)田邊朔郎が寄宿した時期の想定
 田邊朔郎氏が京都市に採用されてから琵琶湖疏水工事の完成するまでの時期と推定されるので、関連しそうな項目を年表や冊子から拾ってみたのが次表である。

1 明治16(1883)年05月 東京大学工学部卒業後京都府に奉職、疏水工事担当となる
2 明治18(1885)年06月 疏水工事起工式、疏水事務所を藤尾村に移設
3             08月 第1竪坑工事着工、19(1886)年04月 第1竪坑工事完工
4                 11月 第2竪坑工事着工,工期約1ヶ月で完工
5      20(1887)年04月   田邊朔郎、工師として疏水工事を総括
6              07月   第1竪坑口と藤尾口の連結完工
7     22(1889)年08月 藤尾近辺の工事終了のため、山科工場廃止
8     23(1890)年03月 疏水工事完工式、同年に北垣知事の長女と結婚
9     25(1892)年頃   北白川の真如堂近くに自宅を購入

 閑栖寺は藤尾地区に近接しており、藤尾から着工しているので、田邊朔郎が閑栖寺に寄宿した時期は、広義に解釈して疏水工事の着工(明治18年)から完工(明治23年)、さらに絞るとしたら、明治18年後半から20年後半の約2年間と推定される。
 
4)閑栖寺敷地内のレンガ張り用水路とレンガ塀について
 今回見学した灌漑用水路は、疏水工事前から存在しており、四宮川から分流された用水路で、その一部が閑栖寺の庭園内を横切っており、座敷からみると風情を保っている。
B-08-16-1_convert_20120608092304.jpg  B-08-16-2_convert_20120608092345.jpg
      閑栖寺庭園内に入る用水路             閑栖寺に入る前の用水路
 左の水路の側面と底面は赤レンガで被覆されており、側面の上2段のレンガは後年になって積み増したレンガである。このレンガが田邊朔郎の提唱で改装されたものであるが、右の写真の石垣の上にも同質のレンガと推定される低いレンガ塀が存在する。この塀のある敷地を手に入れた閑栖寺が、その活用のため塀を撤去することになり、レンガの一部を外したら、刻印のあるレンガであることが判明し、レンガの由来について撤去前に調査することになったものである。
  B-08-16-3_convert_20120608092425.jpg   B-08-16-4_convert_20120608092456.jpg
  用水路の側壁の上に位置するレンガ塀の端部                   上にある敷地から見たレンガ塀
 レンガの制作時期を推定する場合、レンガのサイズ、色調、目地、積み方、刻印などの観察が重要といわれているが、今回レンガ塀に使用されたレンガに「マルハ」の刻印のあることが示された。
  Bー08-16-5    Bー08-16-6
       塀のレンガの刻印―1                        塀のレンガの刻印―2
 レンガの刻印はレンガ工場のトレ-ドマークで、刻印専門の調査マニアが集めてネットで公開しており、舞鶴の赤れんが博物館から冊子も発行されているが、明治初期のレンガの刻印には意味不明のカタカナ文字や線文字(たとえば、イ、ロ、ハ、二重丸、2本線、3本線など)の刻印が多く、レンガ職人を示す暗号のようなものといわれている。
 レンガとレンガの間の目地の不均質さも明治初期の感じがあり、サイズも均一でない。積み方も、1868年に伝来したイギリス積みを採用しており、イギリス人の指導で訓練された日本人の手でレンガの国産が始まっているので、入手面での問題は無かったと推定される。専門分野でないのでこの程度の考察に止めた。
 
5)琵琶湖疏水の第1竪坑近辺で拾った刻印レンガ
 閑栖寺のレンガ調査をしたとき、疏水の刻印レンガを保有している近隣の家に案内していただいた。採取場所は第1竪坑近辺と伺った。
B-08-16-7_convert_20120608092655.jpg   B-08-16-8_convert_20120608092725.jpg                      
 車石の架台となっている2枚の疏水レンガ   疏水レンガの刻印部の拡大写真
 
 琵琶湖疏水は大量のレンガを使用するので、山科御陵地区にレンガ専用工場を建設して明治19(1886)年から稼働させているが、このレンガの刻印は明らかに別のものである。
「琵琶湖疏水の100年」誌によると、明治21(1888)年頃、石積みの予定だったトンネルの内部工事を急遽レンガ積みに変更したためレンガが不足し、日本土木会社・刑務所・江州・湖東など外部各地からレンガを購入したと記載されている。私の想像であるが、この頃第1竪坑の内面レンガ巻き工事が実施されており、購入したレンガの残りとして第1竪坑近辺に放置されていたと推定できる。刻印から見ると当時の大手レンガ工場から購入したもののようである。メーカーの特定は今後の課題としたい。
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