続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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B-04-34 京都岡崎を流れる「白川」に関する追加調査

             琵琶湖疏水の散歩道・第485話(2012-05-03)  KANKANBOW

 

1)まえがき

 日本各地に「白川」という名のついた河川が存在し、その白川の源流をたどると、その多くに花崗岩で構成された山が存在する。そして花崗岩が風化して分解し、風化し難い成分である白色の硅砂が川底に沈降して白く見えることから「白川」という名が付いている。

 京都岡崎を流れる「白川」も、花崗岩系である比叡山~大文字山系を水源とする川であり、関連する調査報告書が多いが、その中で“花崗岩の風化過程”と“鴨東運河と白川の交差方式の考察”の面で私にとって参考になった資料のいくつかを摘出し、若干の考察を加えたのが本レポートである。私のような地質分野について知識の全く乏しいものが、その分野の権威といわれる人の論文を論議することは恐れ多いが、私の責任のもとにその論文の一部を引用させていただいた。

 

2)京都岡崎を流れる「白川」源流の山々の地質紹介

 尾池和夫氏といえば日本トップクラスの地震学者であるが、ホームページの形で俳句誌「氷室」に連載している「京都の地球科学」があり、毎月掲載で現在217号(約18年連続)になる。ネットで全号を閲読できるが、非常にわかりやすいので、平成64月(第7号)の「比叡山と大文字山」から一部を引用させていただいた。

    比叡山と大文字山を構成する地質の大略を示すと、比叡山延暦寺の根本中堂のある四明岳の頂上より北の山体は砂岩や頁岩である、その南から大文字山の山頂あたりまで黒雲母花崗岩で、その南はチャートを含む層で構成されている

    比叡山と大文字山は、もろい花崗岩とホルンフェルスという硬い岩でできている。花崗岩はマグマがでてきた冷えたものでありその熱いマグマが貫入したとき、接触したまわりの岩石を焼いて硬い岩に変質させた。それがホルンフェルスである。

    比叡山と大文字山のあいだの花崗岩は、白亜紀(約9800年前)に古生代末から中生代初期の堆積岩の中に貫入して噴出してきた。ホルンフェルスは硬く花崗岩は風化されやすいので、二つの山頂の間が浸食されて大きくへこんでいる。へこんだ部分の花崗岩が風化してできた白砂が白川を経由して京都盆地に流れ込んでいる。

 

 花崗岩についてWikipediaを開くと、その主要構成物は「石英、カリ長石、斜長石、黒雲母、白雲母、普通角閃石」などと記載されているが、化学成分をみると、すべてアルミノシリケートで、これに少量のアルカリ金属、アルカリ土類金属、水酸基が結合して結晶構造の変化に応じて種々の鉱物名がついている。花崗岩は結晶粒子が大きく、かつ鉱物結晶の熱膨張率が異なるにで、温度差により風化(地表面を作っている岩石が、大気・水・氷・生物などによって少しずつ破壊され変質を受ける現象)する。

 風化に強い石英主体の白砂が河川を経由して海まで運ばれ白い砂浜となり、瀬戸内海の白砂青松や鳥取砂丘となる。比較的風化を受けやすい斜長石は分解してカオリナイトとなり、陶土となり、瀬戸や信楽のように焼き物の町となっている。

 

 今年の3月に細見美術館で開催された「京都岡崎の文化的景観」展でいただいた資料に、東山の地質的観点からの考察記事が含まれている。京都市の文化財保護課から発行された小冊子なので、最新のものとして引用させていただくと、

"比叡山から東山にかけての東山は花崗岩帯で、石英や長石といった白っぽい鉱石を多く含む。この花崗岩は非常にもろく、さらに石英以外の鉱物は風化が進み、ガラス質の石英が残る。この石英を多く含む土砂が白川などに流れ、洗われた砂を白川砂と呼び、枯山水庭園で多用された。

 一方、石英が多い東山の表層土壌は有機質や微生物に乏しく、結果的に貧栄養の土壌でも生育できるアカマツやコナラといった樹種が優占してきた・・・。"

 

 京都の枯山水庭園では、川・湖のような水の場所に白川砂を敷き詰めて、これに渦模様を描いて流れを表現する。また、白川砂は光の反射率が高いので、電気のない時代には暗い茶室に明りを導入する役割を果たしたといわれている。龍安寺、銀閣寺、南禅寺、修学院離宮,詩仙堂、東福寺、下鴨神社、上加茂神社、白沙村荘など白川砂を利用した庭園美がすばらしい。

 

3)白川と琵琶湖疏水の交差方式の考察
 京都大学大学院工学研究科の田中直人助手と川崎雅史助教授(何れも2001-07時点)の名で土木学会論文集No.681に掲載された論文「祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疏水の役割に関する史学研究」に、“岡崎の南禅寺舟溜りで疏水の流れと白川が一旦合流し、500m西方の慶流橋付近で堰を設けて分流している現在の方式について明快に評価解説しているので、その要旨を紹介する。

① 近世以前の白川本川は、昔の絵図にあるように三条通りの北方を東西に流れ、鴨川に流入していた。白川派流である小川は平安神宮大鳥居の辺りから南西に向かい知恩院門前町より鴨川に流れていた。 

② 天正18(1590)年に秀吉が三条大橋を架け替えて橋辺地形が高くなり、洪水時に小川に本川の水が流れ込んで小川が本流の流路となり、旧本流は小排水路となっている。その後三条通以南の白川の流路が何度も屈曲している。

    17世紀の後半に始まる祇園新地の開発に合わせて、白川の水は地域の隅々まで配水され、水路も屈曲したが、頻発する洪水の危険を抱えたまま明治の琵琶湖疏水建設設計時期を迎えた。

    両水流の交差方式を検討した結果、現在の混流~分流方式を選択したが、家屋が密集する祇園地区の治水面から見ると、混流により水路の閉塞につながる白川の白砂が混流地点で沈降分別され、鴨東運河を経由して余剰水を鴨川に放流させて白川の水量コントロールが容易となったことが大きいメリットとなり、白川の治水が補完された。

    第二疏水による水量増加対策として、夷川舟溜りの北側から鴨川まで「白川放水路」を建設して洪水対策を実施したことも有効で、疏水建設以降、岡崎~祇園地区での水害が無くなり、都市形成の基盤となる治水が実現した。

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