続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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A-04-45 最高齢のメル友「小堀富久夫」氏の訃報に接して
     琵琶湖疏水の散歩道・第490報(2012-06-03)    KANKANBOW
 
1)交流の発端
 私が民間企業の化学技術者としての仕事に終止符を打ったのが平成12(2000)年で、既に70歳を越えていた。退職後の楽しみとして、「琵琶湖疏水」を歩いて歴史散策することに焦点を当てて疏水周辺の散策を一巡したころ、パソコンのハンドリングの勉強も兼ねて、「琵琶湖疏水の散歩道」という冊子を自費出版したのが平成15(2003)年であった。同時にホームページを開設し、メール交換もスタートさせた。当時このような取り組みが珍しかったので、京都新聞が2回にわたり記事に取り上げていただいた。
 その後、小堀さんは私が所属した「近代京都の礎の会」のイベントに参加される機会が多くなり、挨拶を交わすようになったが、杖を持った古老の存在を意識しながらもお互いの交流はより深くならなかった。しばらくして、突然長文のメールが届き、小堀さんと私の間に古いつながりのある方であることが判明した。
 今回の新聞報道(訃報)によると、立命館大学の名誉教授で、専門分野は通信工学であり94歳で永眠されたことを知った。最近はお目に架かる機会もなかったが、懐かしい最高齢の友人の疏水に関連する交流を思い出してまとめたのが本報である。
 
2)小堀さんから伺った疏水の思い出話
    私(小堀さん)は大正末期から昭和初期に聖護院に住んでいたので、鴨東運河から蹴上まで私達の遊び場であった。大津行きの船の出入りやインクラインの上下や、閘門を出入りする船の運航には興味があった。蹴上を終点にしたチンチン電車や、寺町通りの電車も良く乗った。この頃は未だ河原町線はなかった。(メール交流)
    私は京大工学部・電気工学科出身で、卒業後すぐに立命館大学へ就職し、65歳で定年退職して山科区四ノ宮の小さな会社に再就職して、コンピューターによる画像処理を指導した。この時、毎日昼休みには疏水に散歩にでかけ、一燈園から第一トンネル出口までを歩きまわった。ここでは第一疏水と第二疏水が並行して流れており、石の隙間から水がのけぞる所がある(?)のを知り、感激した。(メール交流)
    蹴上水力発電所開始以前に、高瀬川経由高瀬舟の石炭運搬による火力発電所があった。場所は木屋町蛸薬師で、丸善の横の通りを入って行ったところで、日本最初の火力発電所で京都の一部の家で電灯がついていた。私の母から聞いた話であるが、火力時代の電灯の色は赤みを帯びていたが、水力に変わると白くなった。全くの笑い話だが、電圧が上がって白熱に近付いたのだろう。この発電所の赤煉瓦の残骸が最近まで残っていたが、先日行ってみたら無くなっていた。
    私の兄が貴方と同じ工業化学科で教授をしていた「舟坂渡」である。この件については直接面談したので、若干補足説明すると、
・・・舟坂教授からは1年間「分析化学」の実験指導を受けたのでよく覚えている。ニックネームは「舟が坂を渡る」という名前から付けられた“インクライン”である。当時、琵琶湖疏水に関する知識は皆無であったが、実在のインクラインを覚えてから一度だけ仲間と現場を歩いたことがある。教授にはもう一つ“チーピン”というニックネームがあった。特徴のある顔で、口許が「への字」に曲がっており、その角度がマージャン牌のピンズの7に似ているので誰かが名付けた。この話を小堀さんに伝えたとき、「兄貴は堅苦しい人間でしたから、よい思い出ではなかったかも知れませんね」と話した。私は「ニックネームが二つもあることは人気者だった証拠」と答えた。
   当時の分析化学の教科書は全文ドイツ語で、単位をとるために難しいドイツ文法を必死に覚える必要があった。・・・
 
3)小堀さんの印象
      私の疏水仲間には、子供時代に疏水の周辺で遊んだ経験を持った人が多い。老年になって子供時代を思い出した人は、とくに疏水への愛着心が強い。小堀さんが私達の企画する講演会や散策会に参加するとき、杖をついて参加した。私も退職後に脊椎間狭窄症を患っていて、散策会に参加したとき、二人で杖を持って参加者の最後尾を歩いた記憶がある。私より12~13歳高齢の小堀さんとは技術者出身という共通の経験から話題が尽きなかった。最近は、私にも疏水仲間が増えて、小堀さんとの交流は殆ど無くなっていたが、久し振りの再会が訃報であった。私にとって小堀さんの存在は“あと10年は頑張って疏水散策を楽しみたい”という目標をくれた方として、心からご冥福を祈りたい。
 
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A-02-18「びわ湖の森の生き物・第4回シンポジウム」に参加

         琵琶湖疏水の散歩道・第489話(2012-05-29) KANKANBOW

 

(1)まえがき

 私は「びわ湖の森生き物研究会」の活動内容に興味があったのでときどきネットを開いてきたが、その活動内容に地域独自性が強く開催場所も遠いことで、県外からの参加には難しい存在であった。しかし、主催のサンライズ出版からの発行図書は図書館でよく読ませていただき、私の少ない蔵書の中でも増えてきた。

 今回初めてシンポジウムに参加したのは、一度研究会の活動状況に触れてみたいことであったが、議題の中に「シカの問題」が入っていたことも理由の一つであった。

 今回の議題は当然ながら「カワウとの共生」が中心で、問題点の総括的な把握ができたが、ここでは、いただいた滋賀の出版文化情報誌「Duet」106号の特集「シカ肉を食べる」の考察を含めてその要旨を報告する。

 

(2)シンポジウムの要旨

 今回開催された第4回シンポジウムは、527日、JR近江八幡駅近くのアクティ近江八幡で開催された。講演と話題提供の議題を示すと、

講演:「森によって異なるカワウと人とのさまざまな共生」亀田佳代子  (研究会員)

話題:「人の関与と野生生物」                      高橋春成    (研究会員)

      「ヒトからの人圧による野生動物との共生」      寺本憲之    (研究会員)

      「シカの食害がもたらす生物多様性の破壊」     青木繁      (研究会員)

      「伊崎半島(伊崎国有林)におけるカワウ被害と森林管理」倉吉博(林野庁職員)

                        A-02-18_convert_20120610005328.jpg   

 今回は、例年出席の嘉田知事からのメッセージが代読され、パネルディスカッションのあと「提言」をまとめて3時間の会合を終えた。

(3)カワウの話題

 「カワウ」は海に潜って魚を捕食し、海岸や島の崖に巣を作ってヒナを育てるが、日本の「カワウ」は、主に湖や河川などの内陸部に生息し、水辺の森林の樹上に巣を作る特徴がある。私がお世話になった会社では海鳥の糞が堆積してできたリン鉱石を輸入して肥料を製造していた時期があったが、日本でもカワウの糞を採取して肥料にした時期があった。

 琵琶湖には2ヶ所の集団繁殖地があるが、そのひとつが竹生島で、「カワウ」には木を枯らし悪臭を発する害を発する悪いイメージしかなく、「カワウ」を減らす策が新聞を賑わせてきた。もうひとつの繁殖地・伊崎半島は、お寺の所有地を除いてほぼ全域が国有林であり、「カワウ」の被害が顕著になってきたので、平成162004)年にワーキンググループを作り、一定の区域にある程度の数のカワウが生息できるようにして、調査を継続実施している。また、針葉樹と広葉樹の混じった被害に強い森づくりに取り組んでいる。面白い試みとして、カワウは人が近づくのを嫌って巣を作らない報告があるので、国有林内の境界線にハイキングコースを設けて「カワウの被害から守る森」、「カワウ被害植生回復の森」、「カワウが生活できる森」に区分して共生を図っている。

 今回の亀田さんの講演で、日本の在来種であるカワウと共生するには、「マイナスの共生」を少しでも「プラスの共生」へと転換する手立てを模索し続けることが必要とのまとめが理解できた。

 

(4)人と陸上野生動物との共生問題

 高橋さんや寺本さんの講演で、シカ、サル、イノシシなどの野生動物とヒトとは昔から森内でお互いに支え合う関係が保たれてきたが、1960年代以降の日本の経済成長期にヒトの生活様式が変化して両者の境界のバランスがくずれて、被害の発生が目立つようになったということを改めて整理し理解することができた。そして問題解決のためには、森の動植物の生物多様性の均衡をベースにヒトがもっと森を積極的に活用管理し、健康な森に再構築する立場から野生動物に人圧をかけていく必要のあることを実感させていただいた。

 今回はイノシシとシカを例にして細部説明していただき、興味ある報告であった。

 

(5)「シカ肉を食べる」の特集冊子を入手

 51日に訪問した伏見区の森林総合研究所・関西研究所で特集「シカと上手くつきあう」と題した冊子(季刊・森林総研15号・201111-30発行)をいただき、③「衛生的なシカ肉は美味しい資源」と題した記事を読んで、問題点の概要を理解した。

    シカのたくさんいる場所はどこか?(九州支所主任研究員・近藤洋史)

    シカを管理する(九州支所主任研究員・八代田千鶴)

    衛生的なシカ肉は美味しい資源(北海道支所研究員・松浦友紀子)

    の記事の中で、北海道のエゾシカは年間10万頭捕獲されているが、流通しているの

はわずか1万頭であると記載されており、その理由について充分に把握できなかった。今回入手した資料の中に滋賀県職員の松井賢一さんの「野生のシカ肉を撃っても売れへんのや」という記事を見付けた。シカ肉は臭くて食用にするためには、肉の中の血を早く抜く必要があり、心臓が動いている間に血を全部抜かないと早い時期に臭みが発生する。食用にするためには、撃ったあと急いでシカのところに行って、心臓近くの動脈を一気に切って放血する必要があり、これを「止め刺し」という。数匹まとめて「止め刺し」できないので、仕留めてから出荷するまでの許容時間が少ない。表現を変えると、目の前にイノシシ1頭、シカが10頭いた場合でも猟師はイノシシを狙うに決まっている。また、体重75kgのシカで、ロースが3.5㎏、モモが12kgであとは全部廃棄となる。したがって、店頭価額も高級黒豚に相当する。調理法もブタやウシの感覚で火を通すと硬くなってしまう。フランスではシカ肉料理が定着しているが、日本ではまだ一般化していない。捕獲してから店頭販売までの流れと料理法の普及指導の流れについてまだ合理化の余地が残されていると感じた。

 


B-08-16 「閑栖寺」に田辺朔郎氏が寄宿していたという話題
     琵琶湖疏水の散歩道・第486話(2012-05-10)    KANKANBOW
 
1)まえがき
 掲題に関する問題で、閑栖寺住職の佐藤賢昭氏と面談させていただくことになり、関連施設も見学させていただいた。そのときに入手した「東海道・大津・追分―車石・車道と大津絵源流」と題した資料の中に、“閑栖寺余話”として下記小記事がある。

寺域を流れている水路はレンガ敷きである。
琵琶湖疏水の設計・工事指導に当たられた田邊朔郎博士が閑栖寺に寄宿されていたので、レンガ敷きにするよう提唱された。
このことは、京都洋画家故高木四郎氏より口伝されたものである。

 今回はレンガにある刻印について調べてほしいという希望であったが、周辺の諸問題を含めて調査した結果をとりまとめたものである。田邊朔郎の人物伝は多くの冊子が取り上げているが、この話題は私の記憶する限り初めての記述であり、聴取したものにネット情報(2日間の調査)を含めて佐藤住職への中間報告の目的でとりまとめたものである。必要あれば順次修正していきたい。
 
2)京都洋画家・高木四郎氏に関する調査結果
 ネット情報として登場する頻度が少ない洋画家であるが、「食べもの随筆・京のあじ(六月社より昭31(19569)年発行)」という本のカバーに挿絵を描いた高木四郎の略歴を示す下記紹介記事を見つけた。

明治42(1909)年生る。京都府立第三中学校卒業で、津田青楓氏に師事氏、二科展出品後、須田国太郎氏に師事、独立展に出品、戦後公募展に出品せず、現在京都に居住する。(昭和31年発行書籍)

 ネット上、とくに多い記事は、平成14(2002)年に国の登録有形文化財の指定を受けた「フランソア喫茶室(阪急河原町より南木屋町出口徒歩1分)」を昭和16(1941)年にイタリアンバロック風に改装時の協力メンバーの一人であり、現在でも高木四郎氏のデザインしたステンドグラスが残っているという話題である。
 高木四郎氏は、当時発行された多くの書籍の表紙デザイン、挿絵の作家として知られており、東京の洋画家(挿絵・随筆家)木村荘八氏と対比できる京都の洋画家との評価もある。佐藤住職によると、高木四郎氏は閑栖時の佐藤家とは遠戚関係にあり、たびたび閑栖寺を訪れているので、確実な情報源と推定される。しかし、高木四郎氏と田邊朔郎氏の生年を比較すると田邊氏は人生約50年先輩となるので、この話題を高木氏が誰から聴取したかがわかれば確実性が増す。
                 
3)田邊朔郎が寄宿した時期の想定
 田邊朔郎氏が京都市に採用されてから琵琶湖疏水工事の完成するまでの時期と推定されるので、関連しそうな項目を年表や冊子から拾ってみたのが次表である。

1 明治16(1883)年05月 東京大学工学部卒業後京都府に奉職、疏水工事担当となる
2 明治18(1885)年06月 疏水工事起工式、疏水事務所を藤尾村に移設
3             08月 第1竪坑工事着工、19(1886)年04月 第1竪坑工事完工
4                 11月 第2竪坑工事着工,工期約1ヶ月で完工
5      20(1887)年04月   田邊朔郎、工師として疏水工事を総括
6              07月   第1竪坑口と藤尾口の連結完工
7     22(1889)年08月 藤尾近辺の工事終了のため、山科工場廃止
8     23(1890)年03月 疏水工事完工式、同年に北垣知事の長女と結婚
9     25(1892)年頃   北白川の真如堂近くに自宅を購入

 閑栖寺は藤尾地区に近接しており、藤尾から着工しているので、田邊朔郎が閑栖寺に寄宿した時期は、広義に解釈して疏水工事の着工(明治18年)から完工(明治23年)、さらに絞るとしたら、明治18年後半から20年後半の約2年間と推定される。
 
4)閑栖寺敷地内のレンガ張り用水路とレンガ塀について
 今回見学した灌漑用水路は、疏水工事前から存在しており、四宮川から分流された用水路で、その一部が閑栖寺の庭園内を横切っており、座敷からみると風情を保っている。
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      閑栖寺庭園内に入る用水路             閑栖寺に入る前の用水路
 左の水路の側面と底面は赤レンガで被覆されており、側面の上2段のレンガは後年になって積み増したレンガである。このレンガが田邊朔郎の提唱で改装されたものであるが、右の写真の石垣の上にも同質のレンガと推定される低いレンガ塀が存在する。この塀のある敷地を手に入れた閑栖寺が、その活用のため塀を撤去することになり、レンガの一部を外したら、刻印のあるレンガであることが判明し、レンガの由来について撤去前に調査することになったものである。
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  用水路の側壁の上に位置するレンガ塀の端部                   上にある敷地から見たレンガ塀
 レンガの制作時期を推定する場合、レンガのサイズ、色調、目地、積み方、刻印などの観察が重要といわれているが、今回レンガ塀に使用されたレンガに「マルハ」の刻印のあることが示された。
  Bー08-16-5    Bー08-16-6
       塀のレンガの刻印―1                        塀のレンガの刻印―2
 レンガの刻印はレンガ工場のトレ-ドマークで、刻印専門の調査マニアが集めてネットで公開しており、舞鶴の赤れんが博物館から冊子も発行されているが、明治初期のレンガの刻印には意味不明のカタカナ文字や線文字(たとえば、イ、ロ、ハ、二重丸、2本線、3本線など)の刻印が多く、レンガ職人を示す暗号のようなものといわれている。
 レンガとレンガの間の目地の不均質さも明治初期の感じがあり、サイズも均一でない。積み方も、1868年に伝来したイギリス積みを採用しており、イギリス人の指導で訓練された日本人の手でレンガの国産が始まっているので、入手面での問題は無かったと推定される。専門分野でないのでこの程度の考察に止めた。
 
5)琵琶湖疏水の第1竪坑近辺で拾った刻印レンガ
 閑栖寺のレンガ調査をしたとき、疏水の刻印レンガを保有している近隣の家に案内していただいた。採取場所は第1竪坑近辺と伺った。
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 車石の架台となっている2枚の疏水レンガ   疏水レンガの刻印部の拡大写真
 
 琵琶湖疏水は大量のレンガを使用するので、山科御陵地区にレンガ専用工場を建設して明治19(1886)年から稼働させているが、このレンガの刻印は明らかに別のものである。
「琵琶湖疏水の100年」誌によると、明治21(1888)年頃、石積みの予定だったトンネルの内部工事を急遽レンガ積みに変更したためレンガが不足し、日本土木会社・刑務所・江州・湖東など外部各地からレンガを購入したと記載されている。私の想像であるが、この頃第1竪坑の内面レンガ巻き工事が実施されており、購入したレンガの残りとして第1竪坑近辺に放置されていたと推定できる。刻印から見ると当時の大手レンガ工場から購入したもののようである。メーカーの特定は今後の課題としたい。
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