続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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C-02-06 伏見区にある「森林総合研究所・関西支所」の見学記

        琵琶湖疏水の散歩道・第488話(2012-05-16) KANKANBOW記

 

1)まえがき

 最近になって京都市周辺の東山・山科地区に存在する里山の維持活用問題に関心を持つようになり関連資料の調査検索を進めている中で、伏見区桃山町に「森林総合研究所・関西支所」の存在を知ったので、5月1日に初めて訪問した。そして、支所内にある公開施設で担当官より詳細な説明を受け、お願いして多くの関連資料をいただいた。その中から私が特に興味をもった事項について、とりまとめたのが本報告である。

 

2)いただいた資料のリスト

    森林総合研究所作成資料

ⅰ)独立行政法人 森林総合研究所の説明(茨城県つくば市に所在)

ⅱ)季刊 森林総研第15号(20111130発行)

ⅲ)季刊 森林総研第16号(20120229発行)

    森林総合研究所・関西支所作成資料

ⅰ)ナラ枯れの被害をどう減らすか-里山林を守るために-

ⅱ)里山に入る前に考えること(行政およびボランティア等による整備活動のために)

ⅲ)森林研究と自然学習とのコラボレーション-コンセプトと活動事例-

ⅳ)森林総合研究所関西支所の最近の研究情報4冊(No100No101No102、No103

ⅴ)森林総合研究所関西支所の説明資料(京都市伏見区に所在)

3)森林総合研究所の概要説明

 いただいた資料より筆者の責任で概要を説明する。森林総合研究所は、明治38(1905)

内に農商務省山林局林業試験所として発足し、改組移転を重ねて平成13(2001)年に「独立行政法人森林総合研究所」として発足して第1期中期計画を開始した。平成18(2006)年に非公務員型行政法人化して第2期中期計画を開始し、さらに他組織と統合・業務承継して担当分野を拡大して、平成23(2011)年から第3期中期計画(平成23年度~27年度)を開始しており、創立百周年を越えた歴史と実績に満ちた組織である。

 「関西支所」の前身は昭和22(1947)年に大阪支場として大阪営林局内に設置され、昭和28(1953)年に京都伏見に移転し、昭和63(1988)年に関西支所に改組している。現在の関西支所は、近畿・中国地方から北陸地方の一部までを対象に、森林・林業に関する研究を実施している。森林研究所全体の研究領域は20分野に区分されているが、関西支所では5研究グループ(農林生態・森林環境・生物多様性・生物被害・森林資源管理)で運営されている。私が住む隣の山科区でも専門分野の人以外には、その存在と内容があまり知られていない施設であるが、見学者用学習室を持っており、勉強の場としてもっと活用が望まれる場所である。

 

4)特に興味を持った事項

 

(1)関西支所の正面入り口にあるメタセコイア並木

 ブログ242 20111128)で滋賀県高島市の500本規模の「マキノ高原のメタセコイア並木道」と武田薬品工業「京都薬用植物園」および日本新薬「山科植物資料館」にある1本のメタセコイア巨木の紹介を実施したが、この伏見区の関西支所の「樹木園)にも数十本規模のメタセコイア並木道が存在し、「森の展示館」にはメタセコイアの切断面の実物見本と化石の実物が展示されている。

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  関西支所の入り口にあるメタセコイア並木道   森の展示館にあるメタセコイア化石の実物  (下部の中央に展示)

外側にある説明板の全文を紹介すると

地球上から絶滅したかと思われていたメタセコイアは、1945年に中国四川省の奥地で発見され、「生ける化石植物」とも呼ばれている。中国では水分の多い谷間に生育していることから「水杉」とも呼ばれており、日本には1949年に持ち込まれ、ここの並木は1955年に植えられたものである。この木の用途は軽くてもろいため建築材としては利用されず、庭園樹として多く植えられている。

 

(2)冊子「里山に入る前に考えること」の紹介

「行政およびボランティア等による整備活動のために」のサブタイトルのついた37ページの冊子で20093月に発行されてから毎年増刷されており、希望すれば入手できる。

一読して初期教育用に最適と感じたので、目次だけを紹介する。

第1章     里山は放置してはいけない

第2章     里山林の変化:過去60年の変遷

第3章 里山林の健康低下の原因と対策

第4章 放置里山林の植営生変化と問題点

第5章  里山林の生物多様性

里山林の生態

第3章     住民とともに実施する里山林の管理

第4章     里山林整備を進めるために

 

(3)冊子「ナラ枯れの被害をどう減らすか」の紹介

 十数年来、ナラ枯れの現象が各地に見られ、最近では琵琶湖疏水の散策道周辺でもビニール袋でカバーされた切断樹木が目立つようになったが、専門的な立場から総括的にまとめた冊子を読んだことはなかった。今回「ナラ枯れの被害をどう減らすか―里山林を守るために―」と題した21ページのカラー冊子をいただき、各種展示物の説明を受けて全体像を把握することができた。

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    昨年7月、山科疏水の散歩道沿いでナラ枯れ対策で伐採された切断樹木と根部分

 

 資料によると、近年の研究進展により、「ナラ枯れとは、カシノナガキクイムシが病原菌を伝播することによって起こる樹木の伝染病の流行」であり、虫害でなく菌害であることが明確になっている。被害は梅雨明けに発生し、コナラ・クリ・シイなどの樹木で、樹齢50~120年の老齢木に多く発生する。6~7月になると枯れたナラから多数のキクイムシの次世代の子供が飛び立つので、上の写真のように羽化脱出・飛散の防止のためシートでカバーしている。この報告書は、第2期中期計画の成果の一つとしてまとめられており、技術者から一般の方にまでわかりやすく解説することを目指して作成されている。

 ナラ枯れの発生は、人間の生活様式の変化に伴い、発生し易くことが確認されており、放置された里山林や林内公園型整備をされるとカシノナガキクイムシの繁殖が増えるので、被害の発生を迅速に把握し、初期段階での防除が最も重要と指摘している。このパンフを永久保存の本の一つとして、伝え広げたいと考えている。

               

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E-01-37 京都市名勝・伏見の「大橋家庭園」見学記

     琵琶湖疏水の散歩道・第487話(2012-05-13)   KANKANBOW記

 

1)まえがき

 私は、父の商社勤務の都合で各地の港町で生活したことが重なり、波止場の香りや汽笛の音に触れると“ふるさと”を思い出すことも多かったが、京都に定住してからは琵琶湖や鴨川水系の風景を楽しむようになり、「琵琶湖疏水」の散策をライフワークの趣味に選んでからは寺社の庭園にも興味が出てきて、小川治兵衛の作庭した近代庭園見学を重ねてきた。今回紹介する「大橋家庭園」は、京都新聞が平成11(2003)年から13(2005)年にかけて長期連載した「探訪・京滋の庭」の中でも、見学希望面で優先度の高い庭園であったが、10年ぶりにその機会に恵まれた。関連する「草津の湊・魚市場碑」の見学と併せて紹介したのが本報告である。

 

2)水琴窟の紹介

 本文の前に、大橋家庭園の特徴の一つである「水琴窟」の概要を紹介する。江戸中期から明治大正にかけて、江戸や京都の富裕な商人の自宅庭園に、水琴窟を設置することが流行した。しかし、昭和に入ってその流行は一時的に留まっていたが、昭和58(1983)年に朝日新聞の天声人語欄に2回取り上げられた頃から再び人気がでてきて、各地に設置されるようになった。

 水琴窟の基本構造は、庭の水源や手洗い場の排水場に、底に穴の開いた甕(かめ)を裏返して埋め、少しずつ水を流れ込むようにすると、甕の下部の水たまりに水滴が当たった音が甕と共鳴して妙音を奏でる。

 ネット検索すると30万件を越えるビッグサイトになっており、特定非営利活動法人「日本水琴窟フオーラム」では、日本および海外を含めた数百件の水琴窟データベースが分別リストアップされている。京都府だけでも50件以上リストされているが、関東地方の方が数では勝っている。最近ではネット上の「Youtube」で音色を比較して楽しめる時代になった。比較的少ない投資額で設置できるし、大学機関による水琴窟の音色の研究解析も進んでおり、設置件数は年々増加しているようである。

 

3)大橋家庭園の紹介

 この庭園は、瀬戸内の鮮魚を一手に扱う元請けを家業として財を為した大橋仁兵衛の別荘庭園で、JR稲荷駅または京阪稲荷駅から徒歩510分、伏見稲荷の社務所の裏側に位置している。この庭園の別名である「苔涼庭」の苔涼(たいりょう)は、各地網元の大漁(たいりょう)を祈念して名付けたと伝えられる。

 仁兵衛と親交のあった庭師「七代目小川治兵衛」が監修して大正(1913)年に完成した庭園で、昭和63(1988)年に京都市名勝に指定されている。七代目治兵衛は多くの名庭を設計施工しているが、この大橋家庭園にはここにしかない特色が二つ(水琴窟と石灯籠)ある。

 水琴窟は、座敷縁側の手洗と庭の一段低い下り「つくばい」の2ヶ所に存在する。内径6080cmの大甕が埋めてあり、設計面の工夫で百年経過しても音色は変わらず、長時間かけて案内したいただいた四代目当主は京都市トップクラスの水琴窟と自慢され、竹筒を用いて両水琴窟の音色の違いまではっきりと確認できた。

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    客間の縁先にある手水鉢前の水琴窟       庭園東の下がりつくばいの水琴窟(茶室内から写す)

 

 もう一つの特徴は、約100坪の庭園に大橋仁兵衛が集めた12個の石灯籠が並べられていることで、小川治兵衛が多すぎると意見したが聞き入れなかったそうである。正面の奥には保津峡谷を模した茂みが設置されており、通路には伽藍石が三ヶ所に配置され庭の狭さを感じさせない見事な庭園となっている。

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   保津峡谷を模したゾーン           詳しい説明を受けた大型の石灯籠

 

 この庭園は現在も小川治兵衛家の手入れを年間2回受けており、老朽化した庭園施設の修理更新のため維持費面で苦労している話しや採掘が禁止されている鞍馬石など庭石の配置や特徴など興味ある話しも聞かせていただいた。

                


4)伏見横大路にある「魚市場遺跡魚魂碑」の見学

 平成20(2008)6月にホームページ第296号で「京都に2ヶ所あった港の共通点」と題して大津港と伏見港の比較を行ったが、当時は伏見に関する知識の浅い時期で、不十分な報告となった。その後伏見区横大路町あたりに「草津の湊」と称する三十石船の発着場があり、「魚市場遺跡魚魂碑」が建立された経緯を示す資料に触れる機会が多くあり、見学する機会を求めていた。この遺跡碑が“羽束師橋の東詰より100m南へ行った堤防上に建っている”という情報を追って見付けることができた。

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      魚市場遺跡魚魂碑の正面全景          桂川に架かる羽束師(はづかし)

 

 この碑は大正8(1919)4月に建立されたが、昭和(1946)年の地震で倒壊し、現在の碑は昭和60(1985)年に再建されたものである。説明文の一部を紹介すると、

“伏見区横大路は平安京の昔より草津の港として栄え、明治十年京都、神戸間に鉄道が開通するまで一千年の永きに亘り、水上交通の要衝として東西行客の来往盛んとなり、京への生鮮魚介類の輸送もここを集散の場として賑わいを見せていた。しかし、鉄道の開通はこの魚市場を廃墟と化し、その伝統は現在の中央卸売市場に受け継がれているが、旧跡をしのんで大正八年四月大橋家により魚市場遺跡碑が建てられた。しかしその後の荒廃により京都市中央卸売市場の水産小売業者をはじめ、業界関係者の発起、厚志により、この地に「魚市場遺跡碑」が再建(昭和六十年六月)された”。

 羽束師橋の名(はづかし)は珍しい発音なので、京都の地名を集めた古語辞典には必ず登場する。専門家による解説がいくつかあるが、私が持っている吉田金彦著「京都滋賀 古代地名を歩く」にも詳しい説明がある。吉田氏は“長岡京の魚河岸”とサブタイトルをつけている。形容詞の「恥しい」と発音が同じであるので、当て字として「水に関わる地名」と解説している。興味のある方は読んでいただきたい。

B-04-34 京都岡崎を流れる「白川」に関する追加調査

             琵琶湖疏水の散歩道・第485話(2012-05-03)  KANKANBOW

 

1)まえがき

 日本各地に「白川」という名のついた河川が存在し、その白川の源流をたどると、その多くに花崗岩で構成された山が存在する。そして花崗岩が風化して分解し、風化し難い成分である白色の硅砂が川底に沈降して白く見えることから「白川」という名が付いている。

 京都岡崎を流れる「白川」も、花崗岩系である比叡山~大文字山系を水源とする川であり、関連する調査報告書が多いが、その中で“花崗岩の風化過程”と“鴨東運河と白川の交差方式の考察”の面で私にとって参考になった資料のいくつかを摘出し、若干の考察を加えたのが本レポートである。私のような地質分野について知識の全く乏しいものが、その分野の権威といわれる人の論文を論議することは恐れ多いが、私の責任のもとにその論文の一部を引用させていただいた。

 

2)京都岡崎を流れる「白川」源流の山々の地質紹介

 尾池和夫氏といえば日本トップクラスの地震学者であるが、ホームページの形で俳句誌「氷室」に連載している「京都の地球科学」があり、毎月掲載で現在217号(約18年連続)になる。ネットで全号を閲読できるが、非常にわかりやすいので、平成64月(第7号)の「比叡山と大文字山」から一部を引用させていただいた。

    比叡山と大文字山を構成する地質の大略を示すと、比叡山延暦寺の根本中堂のある四明岳の頂上より北の山体は砂岩や頁岩である、その南から大文字山の山頂あたりまで黒雲母花崗岩で、その南はチャートを含む層で構成されている

    比叡山と大文字山は、もろい花崗岩とホルンフェルスという硬い岩でできている。花崗岩はマグマがでてきた冷えたものでありその熱いマグマが貫入したとき、接触したまわりの岩石を焼いて硬い岩に変質させた。それがホルンフェルスである。

    比叡山と大文字山のあいだの花崗岩は、白亜紀(約9800年前)に古生代末から中生代初期の堆積岩の中に貫入して噴出してきた。ホルンフェルスは硬く花崗岩は風化されやすいので、二つの山頂の間が浸食されて大きくへこんでいる。へこんだ部分の花崗岩が風化してできた白砂が白川を経由して京都盆地に流れ込んでいる。

 

 花崗岩についてWikipediaを開くと、その主要構成物は「石英、カリ長石、斜長石、黒雲母、白雲母、普通角閃石」などと記載されているが、化学成分をみると、すべてアルミノシリケートで、これに少量のアルカリ金属、アルカリ土類金属、水酸基が結合して結晶構造の変化に応じて種々の鉱物名がついている。花崗岩は結晶粒子が大きく、かつ鉱物結晶の熱膨張率が異なるにで、温度差により風化(地表面を作っている岩石が、大気・水・氷・生物などによって少しずつ破壊され変質を受ける現象)する。

 風化に強い石英主体の白砂が河川を経由して海まで運ばれ白い砂浜となり、瀬戸内海の白砂青松や鳥取砂丘となる。比較的風化を受けやすい斜長石は分解してカオリナイトとなり、陶土となり、瀬戸や信楽のように焼き物の町となっている。

 

 今年の3月に細見美術館で開催された「京都岡崎の文化的景観」展でいただいた資料に、東山の地質的観点からの考察記事が含まれている。京都市の文化財保護課から発行された小冊子なので、最新のものとして引用させていただくと、

"比叡山から東山にかけての東山は花崗岩帯で、石英や長石といった白っぽい鉱石を多く含む。この花崗岩は非常にもろく、さらに石英以外の鉱物は風化が進み、ガラス質の石英が残る。この石英を多く含む土砂が白川などに流れ、洗われた砂を白川砂と呼び、枯山水庭園で多用された。

 一方、石英が多い東山の表層土壌は有機質や微生物に乏しく、結果的に貧栄養の土壌でも生育できるアカマツやコナラといった樹種が優占してきた・・・。"

 

 京都の枯山水庭園では、川・湖のような水の場所に白川砂を敷き詰めて、これに渦模様を描いて流れを表現する。また、白川砂は光の反射率が高いので、電気のない時代には暗い茶室に明りを導入する役割を果たしたといわれている。龍安寺、銀閣寺、南禅寺、修学院離宮,詩仙堂、東福寺、下鴨神社、上加茂神社、白沙村荘など白川砂を利用した庭園美がすばらしい。

 

3)白川と琵琶湖疏水の交差方式の考察
 京都大学大学院工学研究科の田中直人助手と川崎雅史助教授(何れも2001-07時点)の名で土木学会論文集No.681に掲載された論文「祇園白川地区における都市形成と白川・琵琶湖疏水の役割に関する史学研究」に、“岡崎の南禅寺舟溜りで疏水の流れと白川が一旦合流し、500m西方の慶流橋付近で堰を設けて分流している現在の方式について明快に評価解説しているので、その要旨を紹介する。

① 近世以前の白川本川は、昔の絵図にあるように三条通りの北方を東西に流れ、鴨川に流入していた。白川派流である小川は平安神宮大鳥居の辺りから南西に向かい知恩院門前町より鴨川に流れていた。 

② 天正18(1590)年に秀吉が三条大橋を架け替えて橋辺地形が高くなり、洪水時に小川に本川の水が流れ込んで小川が本流の流路となり、旧本流は小排水路となっている。その後三条通以南の白川の流路が何度も屈曲している。

    17世紀の後半に始まる祇園新地の開発に合わせて、白川の水は地域の隅々まで配水され、水路も屈曲したが、頻発する洪水の危険を抱えたまま明治の琵琶湖疏水建設設計時期を迎えた。

    両水流の交差方式を検討した結果、現在の混流~分流方式を選択したが、家屋が密集する祇園地区の治水面から見ると、混流により水路の閉塞につながる白川の白砂が混流地点で沈降分別され、鴨東運河を経由して余剰水を鴨川に放流させて白川の水量コントロールが容易となったことが大きいメリットとなり、白川の治水が補完された。

    第二疏水による水量増加対策として、夷川舟溜りの北側から鴨川まで「白川放水路」を建設して洪水対策を実施したことも有効で、疏水建設以降、岡崎~祇園地区での水害が無くなり、都市形成の基盤となる治水が実現した。

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