続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 C-03-47 京大大学院理学研究科付属・花山天文台の見学

      琵琶湖疏水の散歩道・第499話(2012-12-20)   KANKANBOW

 

1)まえがき

 今年を振り返ると宇宙開発関係の話題が多かったが、私個人にとってもマンション5Fの北側通路から遠望できる花山天文台の見学は、学生時代から希望し実現してない課題の一つであった。山科区に住居を変えて、花山天文台の立地が山科区の領域内にあることを知りその期待が高まっていたが、去る1027日に一般公開されることになり、親族の車に分乗して孫と一緒に見学することができた。

 私自身は宇宙関係の基礎知識は極めて少ないが、山科区内に住む友人の多くがまだ見学していないので、訪問を希望する人のガイド基礎資料としてまとめたのが本報告である。正確な情報ではないないが毎年(要確認)公開日があり、当日は有料シャトルバスが主要駅(京都駅、京阪蹴上駅)から運航されると伺った。

 周辺の紅葉も見頃で、専門家や関係部門の学生が要所に配備されており、講演会も準備されているので、お勧めしたいスポットである。ただし、天候の悪い日は避けたほうがよい。

 

2)花山の地名の由来と天文台設置の経緯

 京都の地名研究会が発行した「京都の地名検証」に山科区の「花山」について解説されているが、多くの説があるようである。京都側で有名な「将軍塚」は花山の北西にある花頂山(天文台から歩いてすぐ近く)にあり、このあたりは花や華のついた場所や故事来歴が多い地域であるが、地名の由来については室町時代の足利義政や義教が訪れた“花の名所”であったという説明が分かり易い。花山の頂上近くの展望台から眺める山科区の全容はすばらしいが、将軍塚のある花頂山の展望台から眺める京都市中心部の景色もすばらしい。

 

淡交社から発行された「京都の近代化遺産」の「花山天文台」に設置経緯が示されているが、京都大学の最初の天文台は大正101921)年に吉田の本部構内に設置されたが、数年のうちに周辺の開発が進んで観測に支障をきたすようになり、次の吉田山が候補地となったが、京都府から風致を害する恐れがあると反対され、次の候補地として当時の山科町北花山に昭和041929)年に「花山天文台」が竣工している。

しかし、今回の訪問でいただいた資料「花山天文台・飛騨天文台」の記載によると、山科区の開発が進行して明るくなってきたので、さらに適地を求めて昭和161941)年に「生駒山太陽観測所(1972年に閉鎖)」に施設の一部を移し、さらに昭和431968)年に設置した「飛騨天文台」にその主要機能を移した。現在の花山天文台は、飛騨天文台や人工衛星で得られる観測データの研究解析や各所との交流や教育施設として役割を分担している。そのご平成222010)年には施設の一部を飛騨あらペルーのイカ大学に移設するなど国際協力体制が急速に進み。宇宙ステーションでの人間の長期滞在が可能な時代となってから、地上天文台の役割は大きい影響を受けている。

 

3)花山天文台の施設の概要

 所在地は京都市山科区北花山大峰町である。車で三条街道を京都に向かい、蹴上浄水場に達する少し手前の東山ドライブウエイに向かう坂を登り、阿含宗本山の建物前を進むと、すぐに花山天文台専用の駐車場に達する。そこから10分程度坂道を歩いて登ると天文台の建屋に達する。一般公開の日は専門の担当者が要所に配備されている。

    

                      1_convert_20121219234736.jpg           2_convert_20121219234811.jpg

 左の写真は、現地で無料配布された14頁のカラー冊子の表紙で、花山天文台と飛騨天文台の概要・30名のスタッフの紹介・主要施設の紹介が6頁かけてコンパクトに解説されている。つづいて研究紹介として、①高分解観測による太陽活動の研究、②太陽地球環境と宇宙天気、③数値シミュレーションによる太陽・宇宙プラズマの研究、④恒星観測・岡山新望遠鏡計画の4件が6頁かけて紹介されている。最後の2頁に天文台のあゆみとして、歴史と主な活動がまとめられている。花山天文台の施設は、本館、別館、歴史館、新館、太陽館の5ヶ所にあり、本館には45㎝屈折望遠鏡、別館にはザートリウス18㎝屈折望遠鏡、太陽館には70㎝シーロスタット望遠鏡・3次元立体表示システムがある。

 

 右の写真は周辺の施設配置の写真であり、左上に東山ドライブウエイの入り口、中央上に阿含宗本山の施設、中央下のシャトルバス乗り場がある。右下に花山天文台施設があり、右下隅に太陽館が位置している。

4)周辺の風景と見学写真

   
          左は花山展望台から見山科区の写真であり、右は将軍塚展望台から見た京都市内の写真である。 
         3_convert_20121219234843.jpg   4_convert_20121219234920.jpg 

     
          左は整備された花山天文台の写真であり、右は天文台周辺の細い雑木の林の写真である。

 

             5_convert_20121219235133.jpg    6_convert_20121219235202.jpg

           熱心に説明してくれる男女の担当研究者

           7_convert_20121219235342.jpg   8_convert_20121219235425.jpg

スポンサーサイト

C-03-46 京都市水道創設100周年記念の年間行事のまとめ

       琵琶湖疏水の散歩道・第498話(2012-12-16) KANKANBOW記

 

1)まえがき

 今年は、京都市の水道創設100周年記念の年にあたり、年頭から年末にかけて多くのイベントや報告が行われた。年頭行事は122日に京都会館の第1ホールに1,600人規模の参加者を集め、京都市長ら来賓の出席のもとに、消防音楽隊の演奏で幕開けを行い、多くの関係冊子が配布されて説明が実施され、有意義な時間を楽しむことができた。

                C-03-46-1   C-03-46-2          

 その概要については、本ホームページ(C-03-43・473話・2012-01-23)で要点を紹介している。

 それから年末にかけて多くの報告やイベントが実施されたので、ここでは特徴ある事項を整理抜粋(文責は筆者)してとりまとめてみた。

 

2)記念冊子を発行

 京都新聞(2012-05-03)記事の要旨を引用すると、京都市上下水道局は記念行事の一つとして「市水道百年史資料編」を刊行し、来春には「叙述編」が刊行される。発行部数は1200部で、その500部は4200円で販売される。

 京都市は「琵琶湖疏水竣工記念事業」として「琵琶湖疏水の100年(叙述編・資料編・画集)を発行し、琵琶湖疏水愛好者にとってバイブル的存在として愛用されているが、今回の「京の水道百年史」も形のあるものとして残していただいた意義は大きい。

 

3)日本水道新聞(2012-05-0119)の特集号の要旨

 新聞の片面サイズ12頁にわたる百周年記念特集号で、とくに興味があったのは下記3名による技術鼎談内容の全文紹介記事であった。

   日本水道工業連合会専務理事  坂本弘道氏

   京都市上下水道局技術長    鈴木秀夫

   京都大学大学院工学研究科教授 伊藤禎彦氏

              

その内容は、豊富な経験と実務に基づいた質の高い技術対談で、我々が表面的に浅く理解していたものを噛み砕いて紹介していただき、私も数回読み返して百年の歴史を深く理解することが出来た。また招待された5人の来賓の説明内容も全文紹介されており、抄録記事に慣れている私も久し振りに全文記事紹介の力を実感することができた。

その内容細部は、上記記念冊子(未読)にまとめられると思うので、ここでは紹介を避けるが、機会があればその内容を部分的に引用したいと考えている。

 

 また、琵琶湖疏水の概要に関する記事も含まれている。この中に疏水水路の長さと水路の本格修理を実施した時期の記録が含まれている。よく質問される内容で、記憶に基づいて適当な返事をしてきたが、専門家の記録として引用させていただいた。

    各水路の長さ

   名称

長さ(km)

            区間の説明

1疏水

20km

琵琶湖取水点から伏見区の濠川となる地点

疏水分線

3.3km

琵琶湖取水点から北白川久保田町まで

2疏水

7.4km

琵琶湖取水点から山科安朱まで

2疏水連絡トンネル

4.5km

2疏水取水口の竪坑から安朱で合流

    水路の主な改修時期

大正151926)年 第2疏水の底板コンクリートの改修

昭和061931)年 第1疏水山科地区の開水路部分をコンクリートで底張り

昭和431968)年 ~491974)年に、第1疏水・第2疏水を全面改修

 

4)京都新聞(2012-08-1321)に8回連載された「潤いとどけて」

 京都市水道100年の紹介を新聞記者の目から解説した記事が8月に連載された。ベテラン記者2名が分担して作成した記事で、問題点も取り挙げられ多くの近隣住民の意見も入っており、興味深く読ませていただいた。見出しと副タイトルを紹介すると、

    おいしさの追求・・・「臭い」苦情に奮起

    偉業の足跡・・・・・都市近代化に貢献

    安全性の向上・・・・最高水準目指して

    追いつかない更新・・老朽管 全域で増え

    危機への対応・・・・水源分散で備えを

    需要の変化・・・・・時代に合う料金に

    市民の感謝・・・・・琵琶湖保全に活用

    返したい美しい水・・汚れ除去 整備進む

 以上3種の百年史を概読させていただいたが、同じ問題点をそれぞれ別の立場から解説しており、興味深かった。

            


5)京都市水道
100周年を記念した疏水ウオーキングラリー開催

 京都市上下水道局に記念行事として最後の大型イベントが121日に開催された。天候に恵まれ、1200人規模の参加者が歩いたが、その要旨については本ホームページ・分類「山科疏水」(B-0257・第496話・2012-12-08に紹介しているので重複を避ける。私が所属している「近代京都の礎を観る会」が最近発行した「琵琶湖疏水の歴史散策・改訂版」を参加者に寄贈したと伺っている。

                                     C-03-46-3            C-03-46-4

なお、私はラリーの一部しか参加しなかったが、蹴上まで参加した人は、蹴上浄水場で普段は非公開の浄水施設を見学したと聞いた。また、市民新聞845号(H24-9-1)によると、閉鎖した山ノ内浄水場の跡地が京都学園大の新キャンパスに貸与され、27年度に開設されて2学部が設置され、31年度以降、学生3000人規模に拡充されると報道している。

 

 

C-03-45 福田金属箔粉工業KK見学記(その2)

    琵琶湖疏水の散歩道・第495号(2012-12-03)KANKANBOW記

 

1)まえがき

 見学時にいただいた「金属粉総合版カタログ」によると、金属粉製法として搗砕法・アトマイズ法・熱処理法・化学還元法・電解法・粉砕法など6つの製法を駆使して、小ロット生産から量産まで最新鋭の生産体制が整えられている。この中で、粉末冶金材料として銅粉・錫粉・青銅粉などの金属粉・これらの混合粉の商品群リストを拝見し、その充実ぶりに感銘を受けた。私は前に別目的で粉末冶金に関する概略調査をしたことがあるので、記憶を辿ってとりまとめたのが本報である。専門家でないので、間違いがあったらお許し願いたい。

 

2)粉末冶金の発展の歴史要旨

 粉末冶金という呼称は比較的最近と考えられるが、その技法は古く、今から少なくとも5000年前にさかのぼる。当時は鉄を溶かす温度を維持するのが難しかったので、海綿鉄を砕いて、加熱焼結して道具を製造していた。この技法を「粉末冶金」と呼称する。

 古来から日本刀の製法も砂鉄(粉末)を原料とし、得られた細長い鉄片を鍛えて作るが、これも立派な粉末冶金の技法である。福田金属箔粉工業KKは、1930年代にヘガネス社から粒状銅粉の供給を受けて商品化を進めるとともに粉末化の研究を重ね、昭和121937)年に国内初の生産システムを完成させたが、時代の流れを自動車の発展で説明すると、自動車1台に使用する粉末冶金部品は、昭和371962)年に10kgであったが、25年後には40kgに伸び、平成081996)年には65kgとなっている。

日本に「日本粉末冶金工業会が発足したのが昭和311956)年であるが、平成122000)年には粉末の時代と呼ばれるようになり、この波に乗って発展したのが福田金属箔粉工業KKである。

 

3)金箔・銀箔の市場について

 福田は、金箔の製造会社からスタートし、そのご主製品を機能材料の分野に展開して成功した会社であるが、金沢にも創業100余年で福田と市場を分け合ったカタニ産業KKがあり、そのご金沢にも金箔製造関連会社が増えている。

 昔の金箔の製法は、金の粒をタヌキの毛皮に挟んで槌で叩いて伸ばす手法が採用されていた。この手法で10円玉の金を叩くと、髪の毛の8分の1の厚みで2畳敷きほどに広げることができる。

 金に次いで展延性に富む銀も0.2ミクロン厚さの箔を作ることができるが、銀を放置すると水分・亜硫酸ガス・硫化水素と反応して黒くなる欠点がある。現在市場に流通している代表的な金箔の規格は、金94.43%、銀4.96%、銅0.66%である。金箔・銀箔・銅箔の市場の大部分を日本が抑えているが、携帯電話では折り曲げ可能なフレキシ部とプリント基板配線用の銅箔は日本(福田が大部分)が世界シエアの9割を占めている。

 金沢のカタニ産業KKは、その後の展開を金箔の利用応用分野に求めて、あぶらとり紙などの商品展開でユニークな実績を挙げている。

 

4)山科立地の工場を建設した背景

 福田金属箔粉工業KKの山科工場立地選定にあたり、琵琶湖疏水の水を利用した水車動力が期待できることを一つの理由に挙げている。私は山科盆地の灌漑用水路について全く知識を持っていなかったが、地元の歴史愛好家である武内良一氏とのコンタクトが約4年前から始まり、ほぼすべての灌漑用水コースを案内していただいた。そして、何人かの先輩研究家の報告書も紹介していただいた。

武内氏の調査によると、山科盆地には両側に洛東用水路と東山用水路の二大幹線水路のほかに中央部の「第三水路」が存在しており、この水源な疏水から直接引水してなく、疏水の水と混流した旧安祥寺川から引水している。

この第三水路について武内氏の資料を参照すると、来栖野に在住されていた杉村政二氏の小冊子「わがふるさと 来栖野の歴史」の年譜に第三水路が明治記載371904)年に完成したとの記載がある。この第三水路の延長線上に福田金属に向かって水路が延びている。福田金属のホームページによると明治411908)年に山科工場を開設し、山科工場で水車による真鍮粉工場を生産開始してと記載されているので水車動力法を採用の話しとつながる。私は報告書(その1)にも示したように、今年の83日に福田金属箔粉工業KKを見学したが訪問途中で体調をくずし、集合時間に遅れて施設の見学もできなかったので、機会があればもう一度見学したい会社である。


          C0344 福田金属箔粉工業KKの見学記(その1)

        琵琶湖疏水の散歩道・第494号(2012-11-21)   KANKANBOW

 

1)まえがき

 見学したのは83日の真夏であったが、種々の理由でまとめが遅れ晩秋の報告となってしまった。福田金属箔粉工業KKという名の会社が近くに存在するということは、私が山科区に移住した十数年前から知っており、私が化学企業を退職した頃の仕事の内容が無機系機能材料の研究開発であったため、退職後もその特異な企業戦略に注目し、新聞情報などの切り抜きを実施してきた。

 数年前から地元の「やましなを語りつぐ会」に入会し、山科の歴史に触れることを楽しみにしてきたが、その活動イベントの一つとして同社を見学する機会を得た。同社は広報活動の熱心な会社であり、会社の全体像を把握したい方は、同社の下記ホームページを開いて読んでいただきたい。

             http://www.fukuda-kyoto.co.jp/

 

2)新聞冊子に紹介された記事から

ここでは、過去約10年間に集めた新聞や冊子記事の中から、ほぼ2年間隔で選んだ資料4件を摘出して同社の成長した背景を紹介する。

    平成142002)年514日付の京都新聞紹介記事の要約

老舗のいま「日々に新た」と題した記事で、次の4項目が紹介されている。

ⅰ)明治初期に真鍮(しんちゅう)粉の製造を手掛けており、タバコのゴールデンバットの包装用錫(すず)箔を受注し、タバコの需要拡大に伴って生産が急増して、このことが会社の伝統産業から近代産業へ飛躍するキッカケとなった。

ⅱ)昭和10年台初期に、火薬などに使う金属箔粉を増産し、技術力を高めた。

Ⅲ)戦後の昭和221947)年に2代目社長に就任した福田嘉一が近代経営の手法を導入し、カラーテレビ、プリント回路基板用電解銅箔など先端産業の分野にまで製品を拡大した。

Ⅳ)現在、4代目社長・福田健氏の指導のもと、「ナノテク分野・環境・福祉をにらんだものづくり」に特化し、グローバルな21世紀を生き抜く老舗の道を指し示した。

 

    平成16(2004)年116日付の京都新聞記事

「脈々ニッポンの技」シリーズ38号に、福田金属箔粉工業の直径0.1ミリのチタンボールの製造施設の写真が紹介されており、プラズマの照斜で溶融されたチタンがゆがみのない真球に生れ変わると説明されている。また、折り畳み式携帯電話の折り曲げ部分に使われる圧延銅箔は、同社を含めた2社で世界の90%のシェアを占めている。

蓄積された箔の扱い方のノウハウが、今の技術につながっている。

               

    平成18(2006)年に紹介されたcomzine誌の記事

福田金属工業KKは、「第1回ものづくり日本大賞」の内閣総理大臣賞を受賞したことで有名であるが、開発のリーダー役を務めた梶田治さんとのインタビュー記事全文がネットで読むことができる。中身の濃い記事であるのでぜひ閲読してほしい。

    http://www.nttcom.co.jp/comzine/no043/wise/index.html

  平成21(2011)8月号の冊子「Fore」誌の記事

この冊子はみずほ総合研究所発行の会員制冊子となっており、公開が禁止されている。

表紙の見出しに“強い企業には{ワケ}がある”、記事の見出しには“「箔と粉」の技術を守りながら変革する”で、この時期の社長の林泰彦を記者がインタビューする形式でまとめられている。

内容を読ませていただく機会があったが、従来の公表記事に無かったものとして「産学公連携の強化」を強調しているのが目立った。

他社は「選択と集中」に特化し、得意な部分野を伸ばして事業を拡大していったが、同社は一度確立した技術を捨てずに維持して蓄積し、今や1000種類を越える金属粉の品揃えをしている。そして、京都の成功した中小企業として必ず登場する会社となったのである。

 

3)まとめ

 今回の見学会は、体調の不良で集合時間に遅れ工場見学の機を逸したが、担当説明者は数代につづいて才能のある経営者に恵まれ、適切な経営判断をしたことが成功のカギとなったとまとめた。そして、企業内容の説明も明確であった。もう一度機会を見付けて工場見学したいと考えている。次回(その2)は成功のカギとして「粉末冶金」の展開面で大手会社に負けなかったことを取り上げる予定である。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。