続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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C-01-25 田邉朔郎が校閲した書籍「鉄筋コンクリート」

       琵琶湖疏水の散歩道・第476話(2012-02-10) KANKANBOW記

 

1)まえがき

 東京丸善株式会社から明治39(1906)7月に発行された「鐵筋コンクリート」という書籍があり、田邉朔郎校閲と記載があるので興味を持っていたが、京都府立図書館にあることがわかったので読ませていただいた。

 著者の井上秀二(18761943)は、京都大学土木工学科の第一期生として明治33(1900)年に卒業(成績優秀で銀時計受賞)した後、明治35(1902)年に京都市土木課長となり、京都市の上下水道新設・疏水発電増強・市電新設の三大事業推進に活躍した土木技術者で、第二疏水の建設面で田邉朔郎と組んで推進した著名な技術者であり、昭和11(1937)年に日本土木学会第24代会長に任命されている。

 170頁の小冊子であるが、発行時期が山科疏水にある「日本最初の鐵筋混凝土橋(第11号橋)」が建設された明治36(1906)年の3年後であり、当時の鉄筋コンクリート技術の設計レベルがわかると期待したが、内容はもっと学術的な内容で、種々の条件下での応力計算式を微分方程式を駆使して解説したものであった。その中から琵琶湖疏水に関係する平易な関係部分を拾って紹介する。

 

2)緒言の全文紹介

 明治中期の学術書の文体は格調が高く、趣旨がはっきり示されているので全文紹介する。

  

耐久・強力・廉価。施工の容易及び體裁の美、総て之れを土木工事の主眼とす。これ等要求の最も多きを満たすものは鐵筋混凝土工是れあり。

 故に泰西諸国においては、之れが創案以来尚ほ浅しと雖も、其各種構造物に適用せらるゝは実に盛大にして、まさに鐵時代を経過し、鐵筋混凝土時代を提出せんとする気運を示しつつあり、本邦現時に於いては其應用尚ほ寥々の嘆を免れ得ざるも、近き将来に於いて旺盛の気運に至るべきは固り喋々を須ひさるなり。

 本書は公務の余暇を用いて、部下技術員の需に応じ、欧州で行われつつある鐵筋混凝土の応力計算法の一部を講述したものである。短期の講述で完全なものではないが、まちがいが多くあることを前提に活用していただき、問題あれば指摘してほしい。

          明治396月        井上秀二

 

 

                  C-01-25-1

3)鐵筋混凝土の起源

 昨年5月に本ホームページ「C-03-42 コンクリートと鉄筋コンクリートの歴史」

に、最新の情報を含めて概略の歴史を集約して紹介したが、それから約110年前に類似の記事が存在することに興味を持ったので、その全文を紹介する。

  

 

 450年前、英国のFair bairnが試験的に作成したのが最初である。37前、フランスのM0nierが一つの様式を案出、これが今日の「モニエ-式」でフランスで創案を発表して用いられ、ドイツで1880年ワイス会社の名でモニェ式特許を取得してPRしたので注目された。しかし、1890年に至る10年間は家の壁床柱に用いるに止まったが、1890年以降アスビック式()、コツタンカン()、ラビッツ式(ドイツ)、メラン式(オーストリー)、ランソーム式()、等で順次広く用いられるようになる。

今日では鉄筋混凝土の強度に不安を抱くものはなく、橋梁・貯水池・堰・堤・擁壁・水管・杭・その他各種の工事に適用されるようになった。

 

 

4)メラン式鉄筋コンクリート製橋梁に関する記録

山科疏水の第11号橋の石碑に米蘭(メラン)式アーチ型と記述されているが、私も平成20(2008)3月に本ホームページ「C-01-15 本邦最初の鉄筋コンクリート橋」で、

オーストリアのメランが吊橋のたわみの理論を発表したのが明治21(1888)年で、メラン式鉄筋コンクリートの特許が発表されたのは明治25(1892)年と指摘したが、今回の井上秀二の著書にも、「メラン式とはコンクリートに鉄造の拱を並行に数條埋設したもので、通常L型もしくはT型の鉄を上臥材および下臥材となし、上下をワーレン式に連結したもの」と説明しているので、第11号橋を「メラン式」と記載した由来が判明したと考えている。

 今回の書籍にメラン式橋梁のスケッチ図があるので、その概略を示したのが下図である。

 

 C-01-25-1.jpg

 以上、本報告は明治中期における鉄筋コンクリートの技術記載を紹介するとともに、第11号橋がメラン式と呼ばれる由来を解説したものである。

             C-01-25-2(完)


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C-01-24 琵琶湖疏水に使用した煉瓦に関する追加情報(1)

     琵琶湖疏水の散歩道・第475話(2011-02-08)    KANKANBOW

 

1)第二疏水に使用した煉瓦に関する資料

 明治から大正にかけて、日本の煉瓦造りは「日本煉瓦製造(埼玉)」、「大阪窯業()」、「岸和田煉瓦(岸和田)」の3社が大手であったが、岸和田煉瓦のネット検索によると、最も古いのは明治5(1872)年に旧藩士・山岡尹方の創業による岸和田煉瓦と伝えられる。

 第一疏水は山科御陵に煉瓦工場を建設したが、第二疏水は煉瓦を外部から購入しており、岸和田煉瓦の刻印である×印の煉瓦を各所で見付けることができるが明確な記録は残っていない。

 京都市役所がまとめた「京都市三大事業誌・第二疏水編・第789集(大正24月発行の186頁に煉瓦の購入明細記録が存在するが、使用量は鉄筋コンクリート採用で減少している。仕様書によると、焼煉瓦(表面茶褐色)と並焼煉瓦(深赤色)2種を10回に分けて購入しているが、大部分の煉瓦の購入銘柄は不明である。

1(42-07-03)・・・140万枚購入、トンネルに使用、金額18900

2(43-07-22)・・・1.6万枚購入、発電所工事に使用、322

3(43-09-13)・・・16.7万枚購入、発電所排水工事用、大阪窯業製、2470

4(43-07-19)・・・43.4万枚購入、送水鉄管敷設用、

5(44-01-27)・・・44.3万枚購入、鴨川水路付帯工事用、大阪窯業製、6644

6(44-03-30)・・・500万枚購入、水路各所使用、66500

7(即納)・・・・・1.5万枚購入、伏見発電所用、125

8(44-04-20)・・・0.9万枚購入,発電所用、横鼻黒煉瓦、315

9(44-03-25)・・・31万枚購入、発電所用、3328

10(44-05-05)・・・1万枚購入、発電所用、133

 以上合計780万枚で、第一疏水1370万枚の半分強となっている。

 

2)第一疏水・煉瓦工場の職員リスト

 御陵に建設された煉瓦工場は、下記により建設・製造・閉鎖・撤去されている。

  明治19(1886)07月 煉瓦工場を御陵に建設し、煉瓦の製造を開始

  明治21(1888)02月 北工場を監獄に委託し、服役者に製造させる

  明治22(1889)10月 1369万個の煉瓦を製造し、工場を閉鎖し施設を撤去

 その間の市職員の配置状況について、「琵琶湖疏水要誌()」に紹介されているので引用する。

煉瓦製造責任者 片山正中 16-07-0721-01-25(44ヶ月) 第6代市会議長(41 42

煉瓦工場 主任 児島定七 21-01-3122-03-30(13ヶ月) 月俸50

                C-01-24-1

煉瓦工場 付属 蘇我 寿  19-06-1621-05-312年)   月俸7

     〃  菊田宗太郎 19-06-1621-05-3117ヶ月) 月俸25円(技師採用)

     〃  立田茂年  19-06-1620-10-0414ヶ月)  月俸16

     〃  井上久吉  19-06-1620-04-2111ヶ月)  月俸10

     〃  中原喜造  19-05-1421-01-109ヶ月)   月俸10

     〃  鈴木 結  20-12-2421-01-3122ヶ月) 月俸10

     〃  阿川忠貞  21-03-1622-04-3022ヶ月) 月俸10

     〃  安井常次郎 21-05-0123-06-3122ヶ月)  月俸6

     〃  高橋吉平  21-05-0122-01-309ヶ月)   日給20

     〃  中野正信  21-05-0121-10-316ヶ月)   日給20

 〃  佐藤繁太郎 21-05-0122-01-319ヶ月)    日給20

 〃  上原与七郎 19-12-1622-12-2631ヶ月) 月俸7

 〃  福田吉一  20-03-1021-01-3111ヶ月)  月俸7

 〃  野村武次郎 20-11-2923-04-3026ヶ月) 月俸8

 〃  武谷宗十郎 21-08-0122-08-3111ヶ月) 日給20

以上、当時の勤務状況や給料内容がわかって興味深い

 

3)わが国の煉瓦の歴史と疏水の煉瓦との関わり

 煉瓦の歴史には多くの資料が存在するが、ここでは煉瓦と建築(74号)から抜粋した日本土木遺産調査会資料「蹴上インクライン復元工事報告書」記載の年表を紹介すると、

 安政4(1857)年 長崎鎔鉄所(後の造船所)起工。オランダ人ハルデスの指導で地元の瓦

         屋が日本初の赤煉瓦を焼成する。

 慶応元(1865)年 横須賀製鉄所起工、化学係として仏人ボエルを雇い入れ、やがて邦人が

         煉瓦を製造

 慶応3(1867)年 佐賀藩と小城藩で英人技師モリスが煉瓦を製造。

 明治元(1868)年 英人ウォ-トル設計の大阪造幣寮起工。煉瓦製造も彼が指導。

 明治3(1870)年 阪神間鉄道用煉瓦製造所を英人技師指導で堺に開設。菊田宗太郎、煉瓦

         製造に従事

 明治8(1875)年 宇都宮三郎、工務省深川工作所でセメント国産化に成功 

 明治16(1883)年 英人コンドル設計の鹿鳴館竣工(構造体は煉瓦造)

 明治18(1885)年 琵琶湖疏水工事起工式

 明治19(1886)年 山科に設置した疏水用煉瓦工場、途中から生産へ(菊田宗太郎採用)

          明治20(1887)年 日本初の機械化大量生産煉瓦製造会社設立、独人煉瓦製造技師チーゼ     

          の指導による。山科の煉瓦工場5月に落成。

明治22(1889)年 日本煉瓦製造会社で日本初の煉瓦成形機が稼働し始める。10月に山科

                 C-01-24-2

          の煉瓦工場廃止(製造個数1360万本)

  明治44(1911)年 帝国劇場竣工(鉄骨煉瓦建築)

  大正09(1920)年 煉瓦生産量がピークを迎える

  大正12(1923)年 関東大震災発生、煉瓦構造物の多くが倒壊。煉瓦時代にピリオッド

  大正14(1925)年 JESで普通煉瓦の寸法が210×100×60に統一、JISも踏襲

            注)年表の赤字は琵琶湖疏水関連記事を示す

 

4)疏水煉瓦のサイズと刻印

  前項と同一資料によると、疏水では厚さの異なる3種類の煉瓦が生産されている。①厚さ

  25分、幅355厘、長さ73分、②厚さが2寸、③厚さが18分。

   郷土史研究者の武谷良一氏からいただいた疏水煉瓦(10号橋の南側で採取)の刻印付き

  破片の写真(左の写真)を紹介すると、

      C-01-24-1_convert_20120217105240.jpg C-01-24-2.jpg

   右の刻印は、疏水煉瓦の文字で、前項資料の部分拡大図であるが、この文字の下に番号

  がついており、左の煉瓦刻印では15の字がある。この番号は33まで存在したといわれて

            いる。疏水煉瓦の実物は、琵琶湖疏水記念館に1枚しか展示されていないし、舞鶴の赤煉

瓦博物館にもない貴重なものである。

 最後に         最後に、舞鶴市の“平野”から発売されている洋菓子「焼れんが」を紹介する。

     C-01-24-3.jpg    

 

C-01-24-3(完)

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