続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
B-08-16 「閑栖寺」に田辺朔郎氏が寄宿していたという話題
     琵琶湖疏水の散歩道・第486話(2012-05-10)    KANKANBOW
 
1)まえがき
 掲題に関する問題で、閑栖寺住職の佐藤賢昭氏と面談させていただくことになり、関連施設も見学させていただいた。そのときに入手した「東海道・大津・追分―車石・車道と大津絵源流」と題した資料の中に、“閑栖寺余話”として下記小記事がある。

寺域を流れている水路はレンガ敷きである。
琵琶湖疏水の設計・工事指導に当たられた田邊朔郎博士が閑栖寺に寄宿されていたので、レンガ敷きにするよう提唱された。
このことは、京都洋画家故高木四郎氏より口伝されたものである。

 今回はレンガにある刻印について調べてほしいという希望であったが、周辺の諸問題を含めて調査した結果をとりまとめたものである。田邊朔郎の人物伝は多くの冊子が取り上げているが、この話題は私の記憶する限り初めての記述であり、聴取したものにネット情報(2日間の調査)を含めて佐藤住職への中間報告の目的でとりまとめたものである。必要あれば順次修正していきたい。
 
2)京都洋画家・高木四郎氏に関する調査結果
 ネット情報として登場する頻度が少ない洋画家であるが、「食べもの随筆・京のあじ(六月社より昭31(19569)年発行)」という本のカバーに挿絵を描いた高木四郎の略歴を示す下記紹介記事を見つけた。

明治42(1909)年生る。京都府立第三中学校卒業で、津田青楓氏に師事氏、二科展出品後、須田国太郎氏に師事、独立展に出品、戦後公募展に出品せず、現在京都に居住する。(昭和31年発行書籍)

 ネット上、とくに多い記事は、平成14(2002)年に国の登録有形文化財の指定を受けた「フランソア喫茶室(阪急河原町より南木屋町出口徒歩1分)」を昭和16(1941)年にイタリアンバロック風に改装時の協力メンバーの一人であり、現在でも高木四郎氏のデザインしたステンドグラスが残っているという話題である。
 高木四郎氏は、当時発行された多くの書籍の表紙デザイン、挿絵の作家として知られており、東京の洋画家(挿絵・随筆家)木村荘八氏と対比できる京都の洋画家との評価もある。佐藤住職によると、高木四郎氏は閑栖時の佐藤家とは遠戚関係にあり、たびたび閑栖寺を訪れているので、確実な情報源と推定される。しかし、高木四郎氏と田邊朔郎氏の生年を比較すると田邊氏は人生約50年先輩となるので、この話題を高木氏が誰から聴取したかがわかれば確実性が増す。
                 
3)田邊朔郎が寄宿した時期の想定
 田邊朔郎氏が京都市に採用されてから琵琶湖疏水工事の完成するまでの時期と推定されるので、関連しそうな項目を年表や冊子から拾ってみたのが次表である。

1 明治16(1883)年05月 東京大学工学部卒業後京都府に奉職、疏水工事担当となる
2 明治18(1885)年06月 疏水工事起工式、疏水事務所を藤尾村に移設
3             08月 第1竪坑工事着工、19(1886)年04月 第1竪坑工事完工
4                 11月 第2竪坑工事着工,工期約1ヶ月で完工
5      20(1887)年04月   田邊朔郎、工師として疏水工事を総括
6              07月   第1竪坑口と藤尾口の連結完工
7     22(1889)年08月 藤尾近辺の工事終了のため、山科工場廃止
8     23(1890)年03月 疏水工事完工式、同年に北垣知事の長女と結婚
9     25(1892)年頃   北白川の真如堂近くに自宅を購入

 閑栖寺は藤尾地区に近接しており、藤尾から着工しているので、田邊朔郎が閑栖寺に寄宿した時期は、広義に解釈して疏水工事の着工(明治18年)から完工(明治23年)、さらに絞るとしたら、明治18年後半から20年後半の約2年間と推定される。
 
4)閑栖寺敷地内のレンガ張り用水路とレンガ塀について
 今回見学した灌漑用水路は、疏水工事前から存在しており、四宮川から分流された用水路で、その一部が閑栖寺の庭園内を横切っており、座敷からみると風情を保っている。
B-08-16-1_convert_20120608092304.jpg  B-08-16-2_convert_20120608092345.jpg
      閑栖寺庭園内に入る用水路             閑栖寺に入る前の用水路
 左の水路の側面と底面は赤レンガで被覆されており、側面の上2段のレンガは後年になって積み増したレンガである。このレンガが田邊朔郎の提唱で改装されたものであるが、右の写真の石垣の上にも同質のレンガと推定される低いレンガ塀が存在する。この塀のある敷地を手に入れた閑栖寺が、その活用のため塀を撤去することになり、レンガの一部を外したら、刻印のあるレンガであることが判明し、レンガの由来について撤去前に調査することになったものである。
  B-08-16-3_convert_20120608092425.jpg   B-08-16-4_convert_20120608092456.jpg
  用水路の側壁の上に位置するレンガ塀の端部                   上にある敷地から見たレンガ塀
 レンガの制作時期を推定する場合、レンガのサイズ、色調、目地、積み方、刻印などの観察が重要といわれているが、今回レンガ塀に使用されたレンガに「マルハ」の刻印のあることが示された。
  Bー08-16-5    Bー08-16-6
       塀のレンガの刻印―1                        塀のレンガの刻印―2
 レンガの刻印はレンガ工場のトレ-ドマークで、刻印専門の調査マニアが集めてネットで公開しており、舞鶴の赤れんが博物館から冊子も発行されているが、明治初期のレンガの刻印には意味不明のカタカナ文字や線文字(たとえば、イ、ロ、ハ、二重丸、2本線、3本線など)の刻印が多く、レンガ職人を示す暗号のようなものといわれている。
 レンガとレンガの間の目地の不均質さも明治初期の感じがあり、サイズも均一でない。積み方も、1868年に伝来したイギリス積みを採用しており、イギリス人の指導で訓練された日本人の手でレンガの国産が始まっているので、入手面での問題は無かったと推定される。専門分野でないのでこの程度の考察に止めた。
 
5)琵琶湖疏水の第1竪坑近辺で拾った刻印レンガ
 閑栖寺のレンガ調査をしたとき、疏水の刻印レンガを保有している近隣の家に案内していただいた。採取場所は第1竪坑近辺と伺った。
B-08-16-7_convert_20120608092655.jpg   B-08-16-8_convert_20120608092725.jpg                      
 車石の架台となっている2枚の疏水レンガ   疏水レンガの刻印部の拡大写真
 
 琵琶湖疏水は大量のレンガを使用するので、山科御陵地区にレンガ専用工場を建設して明治19(1886)年から稼働させているが、このレンガの刻印は明らかに別のものである。
「琵琶湖疏水の100年」誌によると、明治21(1888)年頃、石積みの予定だったトンネルの内部工事を急遽レンガ積みに変更したためレンガが不足し、日本土木会社・刑務所・江州・湖東など外部各地からレンガを購入したと記載されている。私の想像であるが、この頃第1竪坑の内面レンガ巻き工事が実施されており、購入したレンガの残りとして第1竪坑近辺に放置されていたと推定できる。刻印から見ると当時の大手レンガ工場から購入したもののようである。メーカーの特定は今後の課題としたい。
スポンサーサイト
B-08-15 車石・車道関連調査-3(歴史的背景からの考察)
        琵琶湖疏水の散歩道・第482話(2012-03-31)   KANKANBOW記
 
1)まえがき
 大津歴博で開催された車石関連企画展でボランティアガイドを務めたとき時代背景に関するいくつかの質問を受けたが、私の知識と記憶力の浅さから明確な返答ができず、他の内外土木事業との歴史的背景について整理する必要を感じた。私は所属する「近代京都の礎を観る会」の例会で紹介した「蒸気駆動鉄道の歴史の歴史と琵琶湖疏水完成時期の関係」と題した一枚のメモに、車石・車道研究会を通じて教えていただいた情報を追記したものを急いで作成し、個人メモとして対応した。そのご、若干補強した資料メモ(末尾に添付)を最近開催の「やましなを語りつぐ会」例会で紹介したが、企画展出席者も居たので話題の一つとなった。
 私は、平成17(2005年開催の「車石敷設200年記念シンポジウム」で初めて車石の詳細に接し、趣味を越えた学究的情報に感激したが、翌年に発刊された塩野七生氏の「すべての道はローマに通ず」(新潮文庫)を読んで、ローマ人が紀元前に敷石舗装の8万kmの幹線道路(車道・歩道を分別)を支配下の各国に完成させていた事実を知り、車の轍跡の写真を見て海外の歴史の深さに接した。
 今回は、日本における車石敷設の導入時期を、当時の内外の土木建築技術や大型土木事業と対比してまとめてみた。多岐にわたるメモの整理や調査の不十分な段階であるが、修正を要する点を順次整理して補正充実していきたい。
 
2)車石敷設に関連した時代背景
(1)角倉了以の保津峡開削時期との比較
 車石・車道研究会が平成17(2005)年に開催したシンポジウムは、東海道(三条街道)車石敷設200年記念行事であり、車石の知識が乏しかった私は、翌年の平成18(2006)年に開催された各種の「保津峡開削400周年記念行事」に参加したとき、車石敷設は保津峡開削よりかなり後との印象を持っていた。しかし、そのごの車石研究会の細部報告が竹田街道へと幅が広がり、今回の企画展で両者の時期の差があまりないことを教えていただいた。竹田街道に車石を敷設した時期を明確に示す記録はまだ見つかっていないようであるが、わずか50年くらいの差しかないことが判明し、先人の知恵を再認識することができた。
 
2)欧州・中近東地区で発展した土木技術
 世界の土木建設技術の発展史を読むと、紀元前8000年ころにヨルダンで日干しレンガの円形住宅が建設され、紀元前4400年ころに中国で道路の舗装や建物の基礎に焼成レンガが使用されている。古代エジプト・ギリシャ・ローマ時代では火山灰・石灰などのモルタルを用いた気硬性セメントが用いられた。
紀元前3500年ころにイラク南部のシュメール人が車輪を発明し、紀元前1500年ころにトルコのヒッタイト帝国では鉄器文化を育て、史上最初の舗装道路が登場している。このようにみると、昔の画期的技術として有名な「箱根用水」の完成した時期に、すでに日本で「車石を用いた車道」が整備されていたことを再認識させていただいた。
 
3)蒸気動力による蒸気動機関の導入が欧米より遅れた日本
 イギリスで産業革命の基礎を築いた蒸気駆動動力の技術は、欧米で広く採用され、主要各国は運河時代から鉄道時代に進んだが、日本は英国での発明から約50年遅れて新橋~横浜間の鉄道を実現している。この遅れが明治初期の土木事業の推進に大きい影響を及ぼしたことは事実であるが、世界に追い付く努力は評価すべきと思う。
 京都の町の発展とともに、地方からの貨物の京都市内への輸送路の様式も変化し、瀬戸内・淀川経由で京都伏見に集められた貨物の人力輸送や牛車輸送は、高瀬川の舟運と入れ替り、高瀬川の舟運は新設された鴨川運河の輸送に影響を受けて消え、鉄道や自動車輸送の影響で、鴨川運河も利用されなくなった。添付資料にはその経緯を年表で紹介している。
 一番残念なのは、車石を敷いた車道の本物が実物として残っていないことである。すべての要素を入れた車道の大型模型を再現し、どこかの展示場に車石車道を牛車が電動式に動く姿を常設展示してPRに努めたい。今回の企画展をその初期役割を果たしたと大きく評価したい。
 
(4)琵琶湖疏水に関する事項
 添付資料に示したように、琵琶湖疏水の完成は、東海道本線(東京~大阪)が完成した翌年であり、鉄道輸送との競合で苦しいスタートとなったが、道路の改修も徐々に進行し、1920(大正中期)ころから貨物自動車との競争もきびしくなり、終戦後まもなく船による輸送路としての役割は終わった。
 そのごも観光船の通路としての活躍を目指した計画が相次いだが、採算面から実現は難しいようである。現在では鴨川以東の名所を縦横につなぐ散策路や運動を目的としたハイキングコースとして広く利用されるようになった。また産業遺産の道として歴史を勉強して楽しむコースとしても注目されてきた。
 
以上中途半端な報告となったが、「車石・車道」の課題は愛好家のグループで評価が固まった段階になったと感じている。これを一般市民に定着させるには、知名度の高い他の課題との組み合わせ効果をねらう必要がある。その一助になれば幸いである。
 
 
添付資料
 
 蒸気駆動鉄道の歴史と「車石」、「琵琶湖疏水」との完成時期の関係(メモ)  
 
1606年 京都の豪商・角倉了以・素庵が江戸幕府に建議し、保津峡の開削を僅か半年で完工
1611年 角倉了以・素庵は京都と大阪を結ぶ10kmの運河「高瀬川」を着工、3年後に完成
1651年 日本の箱根用水が完成、竪抗技術で空気孔をつくる(日本の高度な伝統技術を採用)
1654年 竹田街道に江戸時代前期に牛車用の車石道が設置されていたという絵図が残っている
1681年 フランスのミディ運河(240km)が完成(平成08年に世界遺産)
1706年 東海道の蹴上附近に牛車用車道が部分的に設置されていたという記録あり
1710年 江戸時代の中ごろ、高瀬川の高瀬舟の数が188艘になったとの記録がある
1736年 東海道(大津~京都間)に部分的に設置された牛車用車道の改修工事が実施されている
1776年 イギリスのワットが蒸気動力による蒸気動機関を発明(明治元年の約60年前)
1776年 イギリスで産業革命がスタートする(竹田街道の牛車/車道は、120年前ころに完成)
1776年 アメリカ独立宣言の年
1804年 東海道筋の街道整備が本格的に実施され、車石の敷設が開始される
    当時ヨーロッパでは道路に木製レールを敷き、車をレールにのせる方法がとられた
1825年イギリスで世界初の商業用蒸気駆動鉄道が開業(運河輸送と交代開始、日本は50年後)
1827年アメリカで商業用蒸気駆動鉄道が開業(日本より45年先行する)
1830年「ねじりまんぽ」技術を用いたトンネルが英国で建造 日本最古は明治07(1874)年鉄道
1832年 フランスで商業用蒸気駆動鉄道が開業
1832年 カナダのリドー運河(202km)が完成(平成17年に世界遺産)
1835年 ドイツで商業用蒸気駆動鉄道が開業
1853年 インドで商業用蒸気駆動鉄道が開業
1854年 アメリカのペリーが来日時に、4分の1規模の蒸気機関車を土産に持参、試験運転
1857年 長崎の製鉄所建設用に日本で初めて赤レンガが焼かれる
1863年 イギリス・ロンドンで地下鉄が開業
1864年 保津川の嵯峨から下鳥羽の鴨川を結ぶ西高瀬川を開削
1865年 東海道の車道の逢坂峠の掘り下げ、日ノ岡峠迂回路の新設工事が開始される
1866 年 ノーベルがダイナマイトを発明
1867年 北海道の茅沼炭鉱で、木製レールに車をのせて牛が引いて運ぶ方式があった
1868(明治元)) 明治新政府発足
1869(明治02)年  アメリカで北米大陸横断鉄道が開業、スエズ運河も開通
1870(明治03)年 工部省鉄道掛が堺に阪神間鉄道用レンガ製造所を設置
1871(明治04)年 日本で人力車が発明され、東京・京都で営業開始
1871(明治04)年 日本の遣米欧使節団が出発、1873(明治06)年に帰国
1872(明治05)年 新橋~横浜の鉄道が、日本で初めて開通(世界初のイギリスより47年遅れて)
1873(明治07)年 日ノ岡峠切り下で車石の一部撤去、翌年全面撤去し、マカダム式道路に改造 
1874(明治08年 東京深川の旧陸軍施設で、ポルトランドセメントの国産化に成功
1879(明治12)年 ダイナマイトが日本に初輸入、明治15年に三池鉱山で初使用
1880(明治13)年 逢坂山トンネル(655m)開通、京都~大津間の鉄道が開通
1881(明治14)年 小野田セメントの前身の会社が発足 
1882(明治15)年 安積疏水完成(オランダ人技師指導)
1884(明治17)年 柳ヶ瀬トンネル完成(1330m)完成、ダイナマイトがトンネルに初使用
1885(明治18年 那須疏水完成(南洋一郎技師指導)
1885(明治18)年 琵琶湖疏水の工事スタート(水脈との遭遇のため第一竪抗工事で難航)
1889(明治22)年 東海道本線の東京~大阪間が開通                
1890(明治23)  琵琶湖疏水完成(東海道線が開通した翌年完成)
1890(明治23)年 京都大津間に乗合馬車が開通
1894(明治27)年 鴨川運河(琵琶湖疏水系)が完成する
1903(明治36)年 京都・広島・大阪で蒸気駆動乗合自動車が営業を開始する
1903(明治36)年 第5回内国勧業博(大阪)で、外国の各種自動車が出品される
1912(明治45)年  京津電車・三条~大津札の辻間が開通
1920(大正09)年 高瀬川の高瀬舟が廃止され姿を消す
1930(昭和05)年 新高瀬川が開通
1935(昭和10)年 鴨川運河の運輸は「し尿船」のみとなる
1936(昭和11)年 疏水運河経由京都から大津に向かう貨物がゼロとなる
1943(昭和18)年 鴨川運河の伏見インクラインが運航休止、昭和41年に施設の一部撤去 
1951(昭和26) 最後の疏水船(大津~山科)が土砂運搬を実施

B-08-14 車石・車道関連調査‐2(牛の削蹄師、牛関連調査)

         琵琶湖疏水の散歩道・第481話(2012-03-26)   KANKANBOW

 

1)まえがき

 大津市歴史博物館の玄関を入ると、正面に車石・車道研究会の真田孝男氏が作成した牛車模型が展示(企画展の期間)されている。真田さんは、牛を飼って農耕実務をされた経験があるので、牛の表情や姿がすばらしく、今回の企画展の目玉となる展示品となった。

  B-08-14-1_convert_20120329012021.jpg B-08-14-2_convert_20120329012405.jpg

      展示前の実物の近接写真            大津歴史博物館の正面に展示

 

 また、研究会の八木平蔵氏が入手された「牛の草鞋」の展示(寄贈者・大津市の岡本源七氏)にも見学者の興味が集中した。八木氏からいただいた資料の中にも「牛の爪切り」の記事があったが、最近のNHK・Eテレで、「牛の爪切り」を専門とする職業の紹介があった。そして、全国に約1000名の牛削蹄師の資格を持つ人が活躍していることを知った。また牛の爪を削る作業を映像で見せていただき、真田さんの家族が牛の爪を削っていたという話しを実感することができた。

 この話題は車石を曳いた牛とは無関係であるが、私自身、小中学校時代に往来を歩く牛の姿を見ていたので興味があり、少し調べてみた結果をまとめたのが本報である。

 

2)蹄の管理と道具

 岩手県奥州市前沢区に「牛の博物館」が存在する。日本唯一の牛博物館と言われているが、年に2回機関誌が発行されており、第1号(19994月)から第38号(20122月)まですべてネットで読むことができる。地域の牛にまつわる話題や世界の牛に関する歴史など牛に関する情報が詰まっているので一気に読ませていただいた。

 また、報告書として「牛博たんけん-蹄の管理と道具」があるので、その一部を紹介すると、“牛の蹄は1ヶ月に6mm程度伸びる。放牧や運動が十分であると自然に削れて正常な形を維持されるが、畜舎で飼われている場合、削蹄を定期的(年に2回が標準)に実施しないと、足の病気が発生し易くなり、搾乳量も低下し、乳房炎の発生誘因にもなる。日本では削蹄の専門家に頼んで、蹄の周囲を削蹄鉈(なた)と鎚(つち)で形を整え、つぎに蹄の裏側を鎌形蹄刀で削る。牛博では日本、台湾、アメリカ、イタリ―の削蹄用具を集めて比較展示している。

 

3)日本社団法人「日本削蹄師会」の紹介

 削蹄師の資格を取得するには「日本削蹄師会」の認定を受ける必要がある。資格は3段階あり、まず2級試験に合格し、4年経過すると1級受験資格がえられ、そのあと9年経過すると指導級の受験資格が得られる。あまり正確に把握していないので、間違った解釈をしているかも知れないが、簡単に取れない資格のようである。現在の牛飼育の主分野は、農耕でなく搾乳と食肉の生産であり、削蹄師は農家と契約して、定期的に巡回しているようである。車石車道の時代には無かった資格制度であるが、農耕中心の時代には農家自身でやっていた作業と想像される。

 

4)牛博物館の機関誌の一部題目の紹介

 機関誌の内容は、豊富な資料・写真・絵画をベースに立派な内容で、ネットで全体をみていただきたいが、ここでは私が興味を持った記事の題目の紹介のみを示した。特集号を含めて内容すべてがネットで読めるようになっている。

01号(1999-04-27)第7回企画展・トラジャの布(日下部啓子コレクション)

03号(2000-01-29)第8回企画展・バターのふるさと

05号(2000-06-17)ミニ企画展(中国の大自然と遊牧)

06号(2001-07-27)第12回企画展(クローン牛・・・性と生命を考える

07号( 特集  )家族で楽しむ企画展2002「ウマ・馬・午」・・・(馬の歴史の詳細な報告あり

09号( 特集  )家族で楽しむ企画展2003「羊は牛ですか?」(・・・羊の歴史の詳細な報告あり

11号(2003-07-23)第14回企画展「ミルクの夜明け」(世界・日本の乳文化の伝来に関する詳細報告

13号(2004-07-22)第15回企画展「浮世絵にみる牛」

14号(2005-07-2910周年記念特別展「前沢牛の歩みとそれを作ったタネ牛たち

15号(2006-12-08)家族で楽しむ企画展2007ブタと牛の遺伝子的比較

16号(2001-03-30)和牛改良の黎明(明治期発行の冊子、種牛図譜の紹介

18号(2002-03-30)世界の牛農耕(西アジアの発祥の地の解説資料

22号(2004-03-30)前沢市で発見された厩猿(牛馬の守り神の紹介)

23号(2004-10-30)国際動物遺伝学会において特別展示の実施

24号(2005-03-30)販売指定店の看板は語る(BSE騒動と関連して)

25号(2005-10-30)開館10周年を迎えて

28号(2007-03-30)家畜化モデルに関する学際研究の重要性(牛の家畜化の歴史を解説

31号(2008-07-10)前沢牛を受け継ぐ家畜文化(前沢牛が日本一最優秀賞を受賞)

34号(2010-02-22)木材を運ぶ牛と牛方(雄牛の背に800kgの木材を乗せて山道を降りる写真と解説)

35号(2010-03-30)東北ブランド牛シンポジウム(牛飼い女性たちが語る・・・特集号)

38号(2012-02-20)「ぶつかり合う角と角」(久慈市山形町で毎年開催される闘牛会)

 

4)最近の牛にかんする統計情報(全国肉用牛振興協会資料)

1)全国の牛の1戸別飼育頭数の推移

 

   

飼育戸数

飼育頭数

1戸あたりの頭数

1967(昭和42年)

1,666,000

1,551,000

  1.5

1970(昭和45年)

901,000

1,789000 

  2.0

1975(昭和50年)

 473,600

 1,857,000

  3.9

1980(昭和55年)

 364,000

2,157,000

  5.9

1985(昭和60年)

 298,000

 2,587,000

  8.7

1990(平成02年)

 232,200

 2,702,000

  11.6

1995(平成07年)

 169,700

 2,965,000

17.5

2000(平成12年)

 116,500

 2823,000

24.2

2005(平成17年)

 89,600

2,747,000

30.7

2010(平成22年)

77,400

 2,892,000

38.9

2)肉用牛の地域別飼育戸数の推移

 

北海道

東北

北陸

関東

東海

近畿

中国

四国

九州沖縄

S62年

4990    

80500

2860

20700

5040

6820

28400

7910

113180

H05年 

4730

62300

1730

12300

3650

6530

18800

4410

84670

H10年

3760

40600

990

8190

2700

4690

10000

2470

56890

H15年

3420

28300

720

6060

2060

3190

6410

1570

46740

H20年

3000

22600

579

4900

1710

2470

4870

1190

39140

 

 上表からわかるように、牛を飼う農家数は機械農耕機の発達と転業のために漸減し、残存農家も飼育規模を拡大してコスト削減と安い輸入品との競争に苦しんでいる様子が伺える。今回の調査は車牛とは関係の少ない方向に進んでしまったが、まったく牛の情報を知らなかった私にとっては興味深いものがあったので、追記させていただいた。。

 複数の馬の博物館も存在するので、今後TTPの動向や運搬手段としての牛馬の遺伝子的比較や歴史的比較を調べてみたいと思っている。今回の調査で、珍しい馬の草鞋の写真や牛の蹄鉄の話題も見付けており、ネット調査の威力を実感したことを付記する。

 

B-08-13 車石・車道関連調査―1(花崗岩の物性面からの考察)

       琵琶湖疏水の散歩道・第480話(2012-03-21) KANKAMBOW

 

1)まえがき

大津歴史博物館において、企画展「くるま石―江戸時代街道整備」が開催(33日~4月15日)されている。主催組織の一つである「車石・車道研究会」に参加している関係で、スタート時に見学者のボランティアガイドを務めたが、見学者の興味は車石の溝が自然発生したという説明に集中した。

 単純に考えて、花崗岩という石の上を木製の車輪が通過した場合、石が擦り減る前に摩耗に弱そうな木製車輪が擦り減ってしまうのではないかという疑問である。会場に各地で産出される花崗岩の見本と産地マップが展示されているので、数人の見学者から質問されたが納得させるだけの説明ができなかった。そこで、花崗岩の方にも物性面から弱点があるのではないかと思って検討したのが本報である。専門外の考察なので自信はないが、間違った記述や問題点があれば教えてほしい。

 

2)花崗岩の物性

 花崗岩とは火成岩の一種であり、主要構成鉱物は、石英・アルカリ長石・斜長石・黒雲母・白雲母・角閃石などであり、数mmの結晶が寄り集まる粗い粒子構造を持った鉱石である。ウイキペディア資料が示す代表的化学組成は、シリカ76.83%、アルミナ12.47%で地球上に存在する代表的な岩石である。天然石材として御影石とも呼ばれ、緻密で堅く、耐摩耗性・耐久性面からも優れており、石の鳥居、城の石垣、石橋に用いられ、近代の建築物の例として国会議事堂の外装はすべて国産花崗岩でできている。また京都では鴨川に架かる橋桁の石柱や琵琶湖疏水の構造材や市内電車の敷石として広く使用され、車石用の石材として使用された。

 欠点は耐熱性で、500℃を超えると急激に強度が下がり、割れ目が発生することであるが実用面での問題はなく、最近では地域環境面や生産コスト面から大部分が輸入品として大量に使用されている。もう一つ気になる事項として風化性の問題がある。琵琶湖疏水の鴨東運河に堆積する白川砂は、背景の大文字山系の花崗岩が風化して生成されている。

その原因として、構成する各種鉱石の熱膨張率が異なるため、温度差の大きいところでは粒子間の結合が弱まり、表面がバラバラに崩れ易くなる。花崗岩の主要成分である石英(砂)は非常に風化され難く、白砂として河川に運ばれる。瀬戸内海の白砂青松や山陰の砂丘も中国山地の花崗岩が元になっている。

したがって、通常の気象条件での使用であれば、建材として使用にまったく問題はないが、車石のような過酷な使用条件のときに部分的な風化類似の現象が発生し、石の溝が出来易くなったと考えることができないか?・・・について考察してみた。

                B-08-13-1

3)花崗岩の細部情報

 花崗岩に関する検索または入手関連情報を順序不同に列記すると、

    花崗岩に含まれるアルカリ属成分(ナトリウム、カリウム、リチウムなど)やアルカリ土類属成分(カルシウム、マグネシウムなど)はケイ酸塩の形で存在し、風化(加水分解性など)を受けやすい成分を含むと推定される。

たとえば、花崗岩の構成成分の一つである「雲母」はカリウムを主成分とするケイ酸塩鉱物であり、斜長石はナトリウムとカルシウムを主成分とする長石類の総称である。

    花崗岩を分析すると、その組成は産出地によって微妙に変化する。外見上の色彩も白色系・淡桃色系・淡緑色系・黒色系と変化し、黒雲母の斑点模様にも地域的特徴がある。

少量の鉄分を含むため、酸化すると錆(酸化鉄)を発生する。

    地球地殻の元素の存在比は、多い順から酸素が約50%、ケイ素が約25%、カルシウムが約3.4%、ナトリウムが約2.63%、カリウムが約2.4%、マグネシウムが約1.9%であり、花崗岩の主要成分の多い順とほぼ一致する。

    太陽系の地球以外の岩石天体に花崗岩は見出されていない。花崗岩の形成に水の関与が必要で、海の存在する地球でのみ大量に作られてきたと推定されている。

    石材は硬いほど長持ちするが、加工技術が未発達の頃は硬い花崗岩のような硬い岩石は利用されず、大理石・砂岩・蛇紋岩などの柔らかい岩石の利用が普及していた。

    花崗岩はマグマがゆっくり固まってできた火成岩で、マグマが地殻に入り込もことを「貫入」といい、貫入によって周囲の岩石が熱によって変成を受ける。

    日本の花崗岩は、塊状で産出され埋蔵量も少なく、品質にもムラが多く、環境保護のため生産制限があるので、現在は輸入品が主体となっている。石材業者のカタログには世界各地の輸入花崗岩がリストされているが、量的には中国品が主力のようである。

 

4)車石の使用条件

 東海道の大津札の辻から京都三条大橋までの距離は3里(約12km)で、米俵9表(60

kg×9=540kg)を積んだ約300kgの牛車(合計約840kg)が年間約2万輌通過して、摩耗により車石に溝ができたと研究会で想定している。

 石材の摩耗度の測定には、圧縮強度・曲げ強度・引っ張り強度・せん断強度、弾性係数、吸水率、耐熱度、熱伝動率などの値を綜合して判断されるが、自然環境に近い条件での使用を前提として測定される。この場合、各種岩石(花崗岩、安山岩、凝灰岩、砂岩、大理石など)の中で花崗岩は石材として最良の岩石と評定されている。

 

最近では鉄道の高速化が進み、軌道(レール)と車輪との摩擦現象に関する研究報告も増えてきたが、車石に関する研究も進んできたので、溝の発生についても減耗速度面からの数値的な裏付けが欲しい。急ぐ必要はないが、研究助成金による研究機関の協力を考え

                  B-08-13-2

てもよい時期にきたと考える。研究機関も、技術系よりは地域の歴史に興味を持つ大学を選び、耐摩耗性の測定実務は試験受託機関を利用する方法がよい。

たとえば、資材の耐摩耗性試験を受託する機関として、「エイキットKK評価試験事業部」があり、耐摩耗試験として①すべり摩耗試験、②静・動摩擦係数、③テーパー摩耗試験

などを挙げている。車石の過酷な使用条件下における物性値を測定し、「使用時に溝が発生」説の理論武装をしてほしいと考える。

 

添付資料:主要岩石の種類と特徴

 

成因別分類

        特   徴

代表的な岩石

火成岩

 

地球内部のマグマ(岸礁)が冷却する過程で凝固したもの。結晶質または半結晶質で塊状をなしている。深成岩・火山岩・半深成岩に分類される。

花崗岩、玄武岩、安山岩、閃緑岩(黒御影)

水成岩

 

岩石が風化浸食されたものや、水に溶解した鉱物質・動植物の遺骸・火山の噴出物などなどが、層をなして積り固まったもので、堆積岩とも呼称される。

凝灰岩(大谷石)、石灰岩、砂岩

変成岩

 

火成岩や水成岩が天然の圧力や熱によって変質したもの

大理石、蛇紋岩、片岩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               B-08-13-3(完)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。