続・そすいのさんぽみち

~2015年4月1日 1件 追加投稿しました。累計510件~
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A0448 琵琶湖疏水周辺訪問の略歴紹介平成242012)年の記録」

          琵琶湖疏水の散歩道・第500話(2012-12-27)  KANKANBOW

1)まえがき
 平成24(2012)1月から12月までの1年間の琵琶湖疏水関連の主要行動記録を表示したのが本報告である。今年の記録の特徴は、山科区の「やましなを語りつぐ会」に関係する行事が多くなったことで、もう一つは4月に私自身の足腰不調で長距離歩行の大部分のイベントに参加できなかったことである。
さらに「琵琶湖疏水の歴史散策」誌の改訂版が完成して礎の会主催の後半イベントで活用でき、「京都市上下水道局」が出版の協力団体として名を入れていただけたことを挙げたい。スタートしたから12年を経過したが、その成果が実感できるこの頃である。


2)年間行動記録
01月 氏神様の若宮八幡宮を新年の初日の朝参拝
        山科疏水の豊川稲荷、永興寺、毘沙門堂を参拝
        京都新聞一面記事「叡智・第一部」の世界遺産記事に「礎の会」が紹介
        京都アスニーで「森孝安の世界地図展」を見学、京都中央図書館訪問
    山科アスニーで「南極探検隊(料理担当から見て」講演会に出席
    大津市ピアザホールで「琵琶湖関連シンポジウムに参加
    京都高島屋で、犬塚勉絵画展を見学
        やましなを語りつぐ会の例会に出席(メタセコイア資料を報告)
        大津歴博で車石関係打ち合わせ
        京都府立図書館で、第二疏水関連の調査を実施
        琵琶湖疏水記念館の特別展「古写真で見る第一疏水建設展」を見学
    水道創設百周年記念行事が、岡崎京都会館で開催、参加
    礎の会メンバーの市会議員・内海貴夫氏の「新春夢まつり(ミヤコホテル)」に参加
    カッパ研究会の「鴨川運河舟曳き道ウオーキング」に参加

02月 熊野神社・吉田神社・聖護院門跡参拝、その他の節分祭に参加
    山科アスニーで、阪大の土山明教授の「宇宙衛星はやぶさ」の講演会に出席
    やましなを語りつぐ会の例会に参加、「笹の音9号(カラー版)」を受領
    「みんなの里山づくり講座」の成果報告会(東山にて)に参加
    京都アスニーで「森幸安の世界地図展」を見学
    大津歴史博物館で「車石トークバトル会」に参加

03月 京都府立植物園で「早春の草花展」を見学
    高島屋グランドホールで、安野光雄の「洛中洛外展」を見学
    大津歴博で、車石研シンポジウムに出席、アタカで打ち上げ会に参加
    岡崎公園散策(細見美・動物園・市美術館庭園・疏水記念館・京都国際交流会館を訪問)
        やましなを語りつぐ会の例会に参加
    岡崎十石舟試乗会・点灯式(欠)

04月 大津運河・三井寺のライトアップ開催中
        岡崎白川沿いの「竹中庵」見学会に参加、そのあと岡崎周辺を散策
    やましなを語りつぐ会の花見会(欠)
        山科疏水を散策(安朱~四宮)時に足部を痛める
    車石研究会のイベント「竹田街道散策」(欠)
        礎の会の総会(京都社会福祉会館)に出席
    「琵琶湖疏水の歴史散策」冊子の残部が近く無くなるので改訂版作成の準備開始
    山科疏水を散策(安朱~四宮)し、細部調査
    礎の会「平安用養育院」の生徒を十石舟に招待

05月 伏見区の大橋家庭園・森林研究所・魚市場遺跡碑を見学(車に同乗)
    5月6日で岡崎十石舟の運航を終了
        山科の閑栖寺訪問、住職と面談し裏手にある煉瓦塀跡を調査(2回訪問)
    やましなを語りつぐ会の例会に参加
    山科西友前で開催された「ふるさとの会」のパネル展を見学
    アクティ近江八幡で開催されたシンポジウム「琵琶湖の森の生き物」の参加
    やましなを語りつぐ会総会(山科区役所)に出席
    礎の会の内海貴夫市会議員が自民府連幹事長に就任

06月 疏水愛好者の小森千賀子氏と国際交流会館で初面談
        山科アスニーで開催された京都府大の山崎正秀氏の講演「森林問題」に出席
    やましなを語りつぐ会の主催の「日本新薬植物園」の訪問(欠)
        やましなを語りつぐ会の例会(山科区役所)に出席
    京都府立植物園を逆コースで散策
    京都教育大の学びの森ミュージアムと藤森神社のアジサイ見学 
    カッパ研世話人の加藤さん運転の車で、サンケイ新聞コラム担当記者を山科疏水ガイド

07月 やましなを語りつぐ会の「小関越えイベント」(欠)
    新緑の山科疏水を撮影散策(四宮一燈園前~疏水公園)
    やましなを語りつぐ会の例会(山科区役所)に出席
    山科疏水「みささぎの森」の依頼があり、本圀寺講堂で2回目の講演
        京都府立植物園でハス花を見学
    
08月 やましなを語りつぐ会のイベント「福田金属箔粉工業kkと上村堤防見学会」に参加
    京都大学のオープンキャンパスを見学
    やましなを語りつぐ会の例会(山科区役所)に出席
        琵琶湖烏丸半島のハス群生地を見学
        四宮徳林庵で、小谷昌子さんの「弦楽奉納演奏会」に出席

09月 やましなを語りつぐ会の例会(山科区役所)に出席
    礎を観る会幹事会(レストランさと)に出席(往復車に同乗)
    アスニー京都で今江秀史氏の「岡崎南禅寺界隈の群としての庭」と題した講演に出席
    山科アスニーで京都橘大学の木下達文氏の講演会「やましなにできること」に出席
    「琵琶湖疏水の歴史散策」の平成24年度改定版の原稿がまとまり、礎の会に提出
    京都産業会館シルクホールで、涌井雅之氏の講演会「森林景観保全・再生」に出席
        同志社で開催の「高瀬川シンポジウム」(欠)
    音羽川小学校で開催された「ふれあい音羽川2012」」のイベントに参加
    京都岡崎のレッドカーペットプロジェクト(欠)

10月 やましなを語りつぐ会の例会(山科区役所)に出席、当面の計画案を討議
    「みやこめっせ」で開催の「石不思議大発見展」を見学
    岡崎の竹中庵を初訪問、今後協力することになる
    花山天文台を初見学、山科地区を山上から展望、隣接する将軍塚展望台から京都市を望見
    京都御所の紅葉風景見学
    やましなを語りつぐ会主催の京都橘大学の山科疏水ガイドを実施

11月 京都府立植物園の菊花展を見学、山科区民の出品展示もあった
    やましなを語りつぐ会の例会(土山会長宅)に出席
    カッパ研究会主催の講演会「京都水盆」(欠)
        岡崎竹中庵を訪問し、当面の進め方について懇談
    やましなを語りつぐ会主催の京都橘大学学生の山科疏水見学コースの下見を実施
    礎の会が共催した第3回「秋の琵琶湖疏水(明治ロマンの道)スタンプラリー」部分参加
        やましなを語りつぐ会主催の京都橘大学の山科疏水ガイドを実施

12月 京都市水道創設百周年記念「疏水ウオーキングラリー」に部分参加
    山科図書館で語りつぐ会土山会長が「山科の100万年」展示会を開催し、見学
      「やましなを語りつぐ会」の望年会(山科区で)に出席
      「近代京都の礎を観る会」の忘年会開催(東山にて)
      「水車の竹中」のイベントがあり、竹中庵を訪問、大勢の関係者で賑わう

    注)参加を予定していて参加できなかった項目に(欠)を入れた

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A-03-07「琵琶湖疏水の歴史散策・平成24年度改訂版」を発刊

        琵琶湖疏水の散歩道・第497話(2012-12-10) KANKANBOW記

 

1)まえがき

 私が化学技術者として50余年勤務した会社を退職した後の楽しみとして、「琵琶湖疏水の散策」に取り組んだのが平成122000)年であるが、74歳からの遅いスタートであった。そして現在まで3冊の冊子を発刊している。また平成152003)年にはホームページ「そすいのさんぽみち」とブログ「ブログ琵琶湖疏水の散歩道」を立ち上げている。そして12年を経由したが、今回は発刊した3冊に焦点を当てて経緯をまとめたのが本報告である。

 

2)3冊の冊子の仕様比較と経緯説明

 主要項目について比較表示したのが次表である。

冊子の名称

発行年

出版方式

発行部数

サイズ(頁数)

重量

琵琶湖疏水の散歩道

H152003)年

自費出版

 500

四六版250

300

琵琶湖疏水の歴史散策

H222010)年

礎の会発行

10000

B524

90

同上(平成24年度改訂版)

H242012)年

礎の会発行

10000

B524

75

 

 最初の自費出版本は京都新聞出版センターに編集制作を依頼したが、販売対象にはしてもらえず、活版印刷時代で増刷ができない時代で自ら本屋を選定して販売を依頼することになり、すべての販売リスクを背負っての初めての出版となった。しかし、予算の関係から500部作成が限度であった。当時は琵琶湖疏水の知名度も低く、興味を示す本屋も少なかった。ちょうどその時期に「世界水フォーラム」が日本で開催され、滋賀・京都・大阪のイベントの中で、琵琶湖疏水に十石舟を運航させる計画が進められ、京都新聞がこの本の出版とホームページ開設を大きく報道していただいたので、評判がよく在庫も少なくなり、発行費用面でのリスクが無くなるという幸運に恵まれた。

 

 もう一つの幸運は、同時期に発足した観光開発を目指す「近代京都の礎を観る会」が、私の著書に着目し、同会の重点推進課題として取り上げられることになり、求めに応じて同会顧問となった。礎の会所属の市会議員・内海貴夫議員のアドバイスを受けて、第2回の冊子の企画が平成21年度の京都市ニューツーリズム創出事業の認定に合格することができた。そして発行費用の一部支援を得て「琵琶湖疏水の歴史散策」の発行をすることが出来た次第である。同時に、鴨東運河に十石舟を運航する実行委員会が設立され、実行委員会メンバーの京都府旅行業共同組合の協力を得て、今年で10回連続の実績を挙げることができた。

「琵琶湖疏水の歴史散策」は多くのイベントに無料配布されたので、平成24年の春ごろ

に在庫切れが予測され、増刷の必要性が出たので、これを機に約2割程度の加筆・訂正・追加の検討を半年かけて実施し改訂版としてまとめた。この3冊目の発行費用は全額自己調達する必要があり、費用の全額は「礎の会」が負担して発行されたが、2回目の冊子の基本スタイルをそのまま踏襲して費用の節減を図り、配布の一部を有料で販売する方針が採用された。具体的には、費用の全額は「礎の会」が負担して発行されたが、発行組織の協力団体の中に京都市上下水道局も参加していただき、京都市水道創設100周年記念のロゴマークを入れさせてもらった。さらにこの改訂版を「京都総合観光案内所」や「琵琶湖疏水記念館」、「みやこめっせ」で有料販売(300円)していただけることになった。このように近代京都の礎を観る会の約10年の努力が市当局に認められて実を結んだと関係者一同は嬉しく思っている。

    

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   平成15(2003)年発行(拡大写真)      平成22(2010)年発行      平成24(2012)年発行

   

 3)まとめ

「近代京都の礎の会」は発足以来12年ほど経過したが、この10年余の経過を振り返ると、多くの運営上の問題に遭遇し、会員の高齢化も進行したが、高桑暉英会長のもと一つずつ問題点を解決してきた。近く84歳を迎える最高齢会員の私も自慢の健脚が大きく弱まり、記憶力の減退に悩まされるようになったし、会自ら行動する力を備えてきた。

また、疏水を散策する人も確実に増加してきており、「明治ロマンの道」の呼称も定着し始めたので、そろそろ顧問役を辞退せねばならない時期が近付いたと実感している。しかし、パソコン相手の机上作業は、出来る範囲を絞ってもう少し続けたいと願望している。


A-04-47「京都インクライン物語」の作者「田村喜子」氏の訃報

     琵琶湖疏水の散歩道・第493報(2012-10-19)     KANKANBOW

 

1)まえがき

「京都インクライン物語」の作品で昭和571982)年に第一回土木学会著作賞を受賞された田村喜子氏が、今年の324日に79歳で死去されたことを伝え聞いた。この作品は、琵琶湖疏水の歴史愛好者にとってバイブル的な存在で、私も初期の段階からお世話になったが、私よりも若い方であったことを初めて知った。近く84歳を迎える私の周辺には訃報が相次ぐこの頃であるが、数少ない思い出の幾つかを墓前に捧げる気持ちで纏めたのが本報である。

 

2)田村喜子さんと面談した思い出

 私が約50年間のサラリーマン生活を終えて、退職後の楽しみとして「琵琶湖疏水の散索」をテーマに選んだのが平成122000)年であるが、まだ歩いて調べる元気が残っていたので毎日周辺の散策を実施し、平成152003)年に整理の目的で「琵琶湖疏水の散歩道」という冊子を500部自費出版した。そのとき、最初に読ませていただいたのが図書館で借用した「京都インクライン物語」である。その翌年に作者が京都に来られ、講演会を開催されることを知り、出席させていただいた。

平成162004)年524日の京都精華大学の講堂で「琵琶湖疏水の過去・現在・未来」と題した田村さんの講演があり、大勢の出席者であったが、休憩時間に挨拶を希望する行列に並んで短い面談をさせていただき、完成したばかりの私の冊子「琵琶湖疏水の散歩道」を手渡した。

当時の私にとって田村喜子氏は疏水分野の大先輩であり、握手することも差し控えた先輩であったが、大きい満足感を得たことを今でも鮮明に記憶している。

田村喜子さんは関東地区に在住で、お目にかかったのは最初で最後となったが、多くの資料に紹介されている略歴の一部を私の文責で紹介すると、

田村さんは昭和071995)年1025日に京都で生まれ、京都府立大学卒業後「都新聞社報道部記者を経て文筆活動に入り、下表に示すように土木分野をテーマにして多くの作品を発表されている。代表的な作品の一部を引用紹介すると、

   昭和571982)年・・・京都インクライン物語

   昭和591984)年・・・京都フランス物語

   昭和611986)年・・・北海道浪漫鉄道

   平成021990)年・・・物語 分水路 信濃川に挑んだ人々

   平成021990)年・・・疏水誕生

   平成041992)年・・・関門トンネル物語                 

   平成142002)年・・・土木のこころ

   平成162004)年・・・野洲川物語

   平成212009)年・・・小樽運河ものがたり

   平成222010)年・・・余部鉄橋物語

 

 この中での3件は琵琶湖疏水の建設を推進した北垣国道と田邉朔郎が推進したプロジェクトを題材としたもので、その後に取り上げた主題の舞台は全国に広がっている。田村作品の特徴は、その内容が土木の世界の立場から広く評価されており、とくにトンネルや運河の建設にかかわる技術表現は、専門家の域に入っていると評価されている。

 今回紹介した田村素子氏の講演会は、NPO法人「遊悠舎京すずめ」が主催されたもので、虫プロ制作の映画「明日を作った男」の上映とセットで実施された。

 

3)田邉朔郎の長男・田邉陽一氏が評価した「京都インクライン物語」

 平成152003)に琵琶湖疏水記念館を訪問して田邉朔郎一族の系統図を調査したときにいただいた資料によると、明治時代を代表する有名人が登場する華麗な一族であるが、これによると、田邉朔郎に3人の孫息子(陽一・康雄・謙三)が存在する。私の「琵琶湖疏水の散歩道」発刊の新聞記事を読んだので見せてほしいという電話が陽一氏から掛かり、平成172005)年717日に指定された岡崎の国際交流会館で初めて面談した。

 陽一氏によると、最近発刊される琵琶湖疏水関連冊子の内容に事実と異なる記述が多いので、作者に直接会って指摘するのが私が背負った義務であるということで、冊子を手渡して長時間にわたり尋問形式で質問を受けた。その意気込みは大変なもので、既刊の冊子の問題点の説明から始まり、私が保有する最近の新しい情報の提供を要請された。

 その時、陽一氏が合格点を挙げられる冊子は「京都インクライン物語」だけであり、新聞記者育ちの田村喜子さんが毎日のように田邉家を訪問し、保有するすべての資料を徹底的に調査した姿を自宅で体験しているので、この本の内容はすべて事実であると強調され、他の複数の著作の間違いを具体的に指摘された。

 この言葉を聞いたあとも「京都インクライン物語」を何回も読み返し、その内容の深さを感じているが、平成061994)年に中央公論社から文庫本サイズの本が発行されたので、小旅行をするときには必ずポケットか肩掛けカバンに入れて読み返す愛読書の一つになっている。後日陽一氏から数回電話をいただいて追加資料の提示要求を受けており、その熱心さを忘れることはできない。

 

 平成1520033月に第3回世界水フオーラムが大阪・京都・大津の3会場で開催され、多くのイベントが開催された。私も京都会場を中心に多くのイベントに参加したが、32123日に「みやこめっせ」で「明日をつくった男~田邉朔郎と琵琶湖疏水」と題した映画を見学した。これは「虫プロダクション」が制作した映画で、原作・田村喜子著「京都インクライン物語」(山海堂編)の完成記念披露上映会で、アニメ型の70分の上映時間であったが、そのご、多くのイベントでも上映され、私も4~5回見学する機会に恵まれているので、ストーリーも正確に覚えている。また、私の琵琶湖疏水の知識の深まりと共に何時見ても新鮮であり、機会があればもう一度見学したい映画である。

 

 

          本資料の田村喜子関連の年次記録(文責筆者)

 

昭和071930)年1025日 京都に生まれる

昭和301955)年03月   京都府立大学卒、都新聞記者を経て文筆活動に入る

昭和531978)年07月   海底の機(文化出版局)発行

昭和571982)年09月   京都インクライン物語(新潮社)発行

昭和581983)年     第1回土木学会著作賞を受賞

昭和591984)年06月   京都フランス物語(新潮社)発行

昭和611986)年10月   北海道浪漫鉄道(新潮社)発行

昭和631988)年09月   五条坂陶芸のまち今昔(新潮社)発行

平成021990)年03月   疏水誕生 藤原みてい絵(京都新聞社)発行

平成021990)年06月   剛毅木訥鉄道技師・藤井松太郎の生涯(毎日新聞社)

平成021990)年10月   物語分水路・信濃川に挑んだ人々(鹿島出版会)発行

平成041992)年08月   関門トンネル物語(毎日新聞社)発行

平成142002)年05月   土木のこころ(山海堂)発行

平成152003)年     「明日をつくったおとこ」 第21回映画コンクール最優秀賞を受賞

平成222010)年07月   余部鉄橋物語(新潮社)発行

               余部橋りょう さらなる100年、第24回映画コンクール 最優秀 賞を受賞

平成242012)年0324日 直腸がんのためご逝去


A-04-46 「山科の100万年(氷河期~現在)記事」の細部紹介

      琵琶湖疏水の散歩道・第492報(2012-09-05)   KANKANBOW

 

1)まえがき

 山科の市民団体「やましなを語りつぐ会」の土山年雄代表のまとめた巨大図表が、山科図書館の創立60周年の記念行事の一つとして、図書館2F81日から9月末の2ヶ月間展示されている。私も同会に所属しており、この巨大図表の背景に膨大な資料があり、とくに琵琶湖疏水が山科地区の明治以降の近代化に大きく貢献したかを絵図で見事にとりまとめた土山代表の努力に感銘を受けた一人である。

 琵琶湖疏水の地域産業に貢献した記述は、疏水のバイブルと評価されている「琵琶湖疏水の100年」誌をみると北白川地区と伏見地区の解説が中心であり、山科地区に関する記述に乏しいが、最近の十年間をみると、山科地区の歴史研究愛好者による区内発表資料のレベルも向上している。しかし、山科地区の資料がネット検索に登場する機会が少ない。

 私も山科在住年数がやっと十数年の若輩であるが、私のホームページとブログ「琵琶湖疏水の散歩道」のアクセス累計数も併せて10万件を大きく越える状況に達しており、滋賀・京都と巾広い閲覧者が存在するので、今回のイベントの詳しい内容を紹介することにした。琵琶湖疏水に興味ある人で、山科図書館で見学出来ない人のため、土山さんの了解を得てまとめさせていただいた。

 

2)京都新聞と山科新聞に紹介された記事

    京都新聞平成24(2012)82日に掲載された紹介記事

                 

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山科新聞平成242012)819144号に掲載された紹介記事

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3)琵琶湖疏水が山科の近代化に大きく貢献したことの説明

 今回展示の巨大展示物の最大の目玉は、中央にあるカラフルな2枚の山科地形図である。

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 琵琶湖疏水完成前の明治22(1889)年  琵琶湖疏水完成後の明治42(1909)

上記2枚の地形図の間に次に示す説明文がある。

                 

左の地図(明治22年)と右の地図(明治42年)を見くらべてください。茶畑(紅色)であった場所(明治22年)が、明治42年には田畑(薄緑)に変わっています。何故でしょうか? それは下記①,②の水路を経由して、それぞれの田畑に水が行き渡るようになったからです。

    疏水から水を引いて造った洛東用水路・東山用水路とさらに、その用水路から分岐した農業用水路。

    四ノ宮川等の河川に疏水の水を引き、川に堰を造ってできた用水路と、さらに、その用水路から分岐した農業用水路。

 現在も、これらの農業用水路は、地域により多少の変動はありますが、それぞれの土地改良区によって管理されています。

 

 山科盆地は、北東が高く、南西が低い扇状地になっています。その高低差は90mにも達しています。しかも盆地南部の勧修・小野・醍醐地区は幅がせまく、その中を山科川が流れています。このため、昭和30年代より山科川の治水工事が六地蔵から北へと始まり、昭和60年ころまで行われました。

 

こういった努力が実を結んで、現在では山科川沿岸が住宅街になっています。昔日の感がします。

 

 さらに、中央部の2枚の絵図の右側に、当時の北垣国道知事が琵琶湖疏水工事を推進した経緯が下記のように横書きに記載されています。

 

疏水はなぜ造られたのでしょうか?

 江戸時代より大津から京都への物資の輸送を円滑にしたいと多くの計画がありました。しかし、実現はしませんでした。大津から逢坂山を越え、京都へは日ノ岡峠を越えるという難所があったからです。

明治14年、着任した京都府知事・北垣国道は、舟運や灌漑用水のほか産業動力として使おうと打ち出した計画を実行に移しました。その結果、明治18年から5年間で、疏水工事を完成させました。

 工事にかかった費用は、京都府予算の2倍を超えました。その費用の捻出には、大変な苦労がありました。

    京都市民(上京区・下京区)には、戸数割・地価割・営業別の賦課金となって市民の負担となりました。通常税のほかにです。

しかも戸数割は、低所得の借家人にもかけられ、延納・減額願いが相次ぎ反対運動も起りました

    北垣知事は、率先して府職員と共に、幾らかの金額を拠出寄付し、工事の必要性を説いて京都市民の協力を求めました。

 疏水工事が進むなか、責任者の田邉朔郎は、アメリカの水力発電所を視察し、新たに、疏水事業の目的のなかに、水力発電事業を加えました。

 明治41年から4年間で閑栖した第二疏水によって、さらに大きな成果が京都市民にもたらされました。東京遷都によって、さびれた京都が活力を取り戻したことはとても大きい。

    京都の町n電灯が灯されたほか、日本最初の電気鉄道が開業、交通網の発展に、また鴨川周辺の工場にも電力が供給され、産業の近代化を推進しました。

    上水道の普及によって、飲料水が確保できるようになりました。

疏水の開通によって、山科はどう変わってきたでしょうか?

    灌漑用水が確保され、農業問題の解決に役立ちました。

    物資の輸送ルートであった東海道が、疏水の舟運に変わりました。それによって、馬車が次第に少なくなったため、馬が休憩する「馬場」の消えて行きました。安朱東馬場、安朱西馬場、護国寺馬場、安祥寺馬場のうち、護国寺馬場は、護国寺の境内に道が通り、

大正年間に入ると山科京極商店街へと大きく発展しました。

    四ノ宮川の水量が増えたことを利用して、明治33年には竹鼻で、水車を使った織物工場が誕生しました。

 さらに明治24年、蹴上に発電所が建設されたことによって、飛躍的な発展が京都市だけでなく、山科にも及びました。

    京津電車(今の京阪京津線)が開通し、交通の便がよくなりました。

    発電所ができたため、一般家庭にも電灯が灯るようになりました。

    上水道が普及し、飲料水が飲めるようになりました。

    水車を利用していた工場も電気が使えるようになりました。また、工場が次第に増えて経済の発展につながりました。

 

4)「山科100万年(氷河期~現代)の営み」年表

 山科100万年を、氷河期(約90~60年前にかけて)、後期旧石器時代(約2万年前~)、縄文時代(約1万2千年前~)、弥生時代(約2,300年前~)、古墳時代(約1700年前~)、飛鳥時代(約1420年前~)、奈良時代(約1300年前~)、平安時代(約1220年前~)、鎌倉時代(約830年前~)、南北朝・室町・戦国時代(約680年前~)、安土桃山時代(約440年前~)、江戸時代(約410年前~)、明治年間(144年前~)、大正年間(100年前から)、昭和年間(86年前~)、平成年間(23年前~)に分別して8枚にまとめられた年表(展示記事で、土山氏が20120801に作成されたもの)を山科図書館で入手したので、これを末尾に添付した。

 山科の歴史に興味のある人で実物を見学する機会の無かった人にとって、きわめて便利な年表である、この報告は、ネット検索で読めるよう、マイナーな写真を除いてほぼすべての記述を引用させていただいた。10月以降に公開する予定である

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A-04-45 最高齢のメル友「小堀富久夫」氏の訃報に接して
     琵琶湖疏水の散歩道・第490報(2012-06-03)    KANKANBOW
 
1)交流の発端
 私が民間企業の化学技術者としての仕事に終止符を打ったのが平成12(2000)年で、既に70歳を越えていた。退職後の楽しみとして、「琵琶湖疏水」を歩いて歴史散策することに焦点を当てて疏水周辺の散策を一巡したころ、パソコンのハンドリングの勉強も兼ねて、「琵琶湖疏水の散歩道」という冊子を自費出版したのが平成15(2003)年であった。同時にホームページを開設し、メール交換もスタートさせた。当時このような取り組みが珍しかったので、京都新聞が2回にわたり記事に取り上げていただいた。
 その後、小堀さんは私が所属した「近代京都の礎の会」のイベントに参加される機会が多くなり、挨拶を交わすようになったが、杖を持った古老の存在を意識しながらもお互いの交流はより深くならなかった。しばらくして、突然長文のメールが届き、小堀さんと私の間に古いつながりのある方であることが判明した。
 今回の新聞報道(訃報)によると、立命館大学の名誉教授で、専門分野は通信工学であり94歳で永眠されたことを知った。最近はお目に架かる機会もなかったが、懐かしい最高齢の友人の疏水に関連する交流を思い出してまとめたのが本報である。
 
2)小堀さんから伺った疏水の思い出話
    私(小堀さん)は大正末期から昭和初期に聖護院に住んでいたので、鴨東運河から蹴上まで私達の遊び場であった。大津行きの船の出入りやインクラインの上下や、閘門を出入りする船の運航には興味があった。蹴上を終点にしたチンチン電車や、寺町通りの電車も良く乗った。この頃は未だ河原町線はなかった。(メール交流)
    私は京大工学部・電気工学科出身で、卒業後すぐに立命館大学へ就職し、65歳で定年退職して山科区四ノ宮の小さな会社に再就職して、コンピューターによる画像処理を指導した。この時、毎日昼休みには疏水に散歩にでかけ、一燈園から第一トンネル出口までを歩きまわった。ここでは第一疏水と第二疏水が並行して流れており、石の隙間から水がのけぞる所がある(?)のを知り、感激した。(メール交流)
    蹴上水力発電所開始以前に、高瀬川経由高瀬舟の石炭運搬による火力発電所があった。場所は木屋町蛸薬師で、丸善の横の通りを入って行ったところで、日本最初の火力発電所で京都の一部の家で電灯がついていた。私の母から聞いた話であるが、火力時代の電灯の色は赤みを帯びていたが、水力に変わると白くなった。全くの笑い話だが、電圧が上がって白熱に近付いたのだろう。この発電所の赤煉瓦の残骸が最近まで残っていたが、先日行ってみたら無くなっていた。
    私の兄が貴方と同じ工業化学科で教授をしていた「舟坂渡」である。この件については直接面談したので、若干補足説明すると、
・・・舟坂教授からは1年間「分析化学」の実験指導を受けたのでよく覚えている。ニックネームは「舟が坂を渡る」という名前から付けられた“インクライン”である。当時、琵琶湖疏水に関する知識は皆無であったが、実在のインクラインを覚えてから一度だけ仲間と現場を歩いたことがある。教授にはもう一つ“チーピン”というニックネームがあった。特徴のある顔で、口許が「への字」に曲がっており、その角度がマージャン牌のピンズの7に似ているので誰かが名付けた。この話を小堀さんに伝えたとき、「兄貴は堅苦しい人間でしたから、よい思い出ではなかったかも知れませんね」と話した。私は「ニックネームが二つもあることは人気者だった証拠」と答えた。
   当時の分析化学の教科書は全文ドイツ語で、単位をとるために難しいドイツ文法を必死に覚える必要があった。・・・
 
3)小堀さんの印象
      私の疏水仲間には、子供時代に疏水の周辺で遊んだ経験を持った人が多い。老年になって子供時代を思い出した人は、とくに疏水への愛着心が強い。小堀さんが私達の企画する講演会や散策会に参加するとき、杖をついて参加した。私も退職後に脊椎間狭窄症を患っていて、散策会に参加したとき、二人で杖を持って参加者の最後尾を歩いた記憶がある。私より12~13歳高齢の小堀さんとは技術者出身という共通の経験から話題が尽きなかった。最近は、私にも疏水仲間が増えて、小堀さんとの交流は殆ど無くなっていたが、久し振りの再会が訃報であった。私にとって小堀さんの存在は“あと10年は頑張って疏水散策を楽しみたい”という目標をくれた方として、心からご冥福を祈りたい。
 
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